高車
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高車(こうしゃ、拼音:Gāochē)は、4世紀から6世紀の中国の五胡十六国時代・南北朝時代にモンゴル高原の北に存在したテュルク系遊牧民の中国での呼び名。または、阿伏至羅(あふくしら、āfúzhìluó)が自立して建てた阿伏至羅国(阿伏至羅)を指す。
- ^ 平凡社 1972, p. 3.
- ^ 通例では、丁零・鉄勒は、Türkの音訳だとされている[1]
- ^ Boodberg, Peter A. (1951). “Three Notes on the T'u-chüeh Turks”. University of California publications in Semitic Philology, Berkeley and Los Angels 11: 1-11.
- ^ 平凡社 1971, p.220 注8,p.252 注3,p.257 注9.
- ^ 『資治通鑑』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は炎帝の出自であり、炎帝が草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん、sìfén)』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とある。
- ^ 『魏書』列伝第九十一
高車(袁紇部)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)
丁零人は南北朝時代に北魏から高車と呼ばれるようになる。 「高車」とは4~6世紀の中国北朝におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する。
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高車(こうしゃ)
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詳細は「高車」を参照 モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から「高車」と呼ばれるようになる。 これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。 阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。
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高車(こうしゃ)
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詳細は「高車」を参照 モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から高車と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。
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