志学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 03:41 UTC 版)
若い頃は、楚の深い山奥で、道家の隠者である鶡冠子(かつかんし、「ヤマドリの羽根の冠をつけた先生」の意)のもと学問を学んだ。師や王侯との対話が道家の書『鶡冠子』全十九篇のうち七篇に収録されている。道家出身ではあるが、若年の頃から軍事に強い興味を持っていたようであり、師への質問も天と武の関係を問うものが多い。 また、趙人の劇辛が燕の昭王(在位紀元前312-279年)に仕える以前、親しくしていた。劇辛からは人となりを「与し易きのみ」(とても親しみやすい)と評され、縦横家としての著書も執筆するなど、弁舌に長けていた。 あるとき、趙の武霊王(在位紀元前326年-298年)に召しだされ、「戦わずして勝つ者こそ最善である」という孫子の兵法について意見を問われて、兵家と道家の両方の知識を用いて解説を行っている。龐煖の会見との前後は不明だが、実際に武霊王は考えなしに攻めるのではなく、他国の後継者争いに介入したり、胡服騎射という軍制改革を行ったりすることで、趙を軍事大国としている。『鶡冠子』武霊王篇に見られる弁論は以下の様なものである。 武霊王「余が流言飛語に聞くところでは、『百戦して勝つは善の善なるものにあらず、戦わずして勝つこそ善の善なるものなり』などという(『孫子』にもほぼ同一の文があるが、武霊王はこれを風聞の類として扱っている)。その解釈をお聞きかせ頂きたい」 龐煖「巧みな者は戦争に与しないことを貴ぶので、『計謀』を大いに上策として用いるのでございます。その次が『人事』に因ることです。そして下策が『戦克』です。 いわゆる『計謀』を用いるとは、敵国の君主を眩惑し、習俗を淫猥に変更させ、慎ましさを捨て驕って欲望のままにさせることです。そうすれば聖人のことわりは無くなります。人をえこひいきして親しくし、功績がないのに爵位を与え、勤労がないのに賞与を与え、機嫌のいい時は勝手に罪を許し、怒れば根拠なく人を殺し、民を法律で縛っておいて自らは慎ましやかな人間だとうそぶき、小人なのに自らを徳の至った者と見なし、無用の長物を頻繁に用い、亀甲占いに没頭し、高徳の道義というものが意中の人(を贔屓すること)よりも下になります。 いわゆる『人事』に因るとは、(賄賂として)幣帛をつらね貨財を用いて繰り返し側近の口をおさえ、そうであるという所を全くそうではない、そうではないところを全くそうであると言わせ、君主から離反する際にも忠臣の道を用いさせることです。 いわゆる『戦克』(戦って勝つ)というのは、もとから既に衰えきった国に、軍隊が進行して攻めるものです。越王勾践はこれを用いて呉を亡ぼし、楚はこれを用いて陳と蔡をことごとく平らげ、(趙・魏・韓の)三家はこれを用いて(政敵の)智氏を亡ぼし、韓(韓宣子)はこれを用いて東方にある(政敵の祁氏・羊舌氏の)地を切り分けました。 今、世間の者たちは軍事について、『すべて、強大な国が必ず勝ち、小弱な国は必ず滅ぶ。だから小国の君は覇王者になれないし、万乗の主(一万の戦車を持つ大君主)は滅びない』などと主張します。しかし、かつて夏は広くて湯王の殷は狭く、殷は大きくて周は小さく、越は強くて呉は弱かったものでした(が、小国のはずの後者が大国の前者に勝ちました)。これがいわゆる(孫子兵法に言う)『戦わずして勝つは善の善なる者なり』であり、また(道家思想に言う)『陰経の法・夜行の道・天武の類』でございます。 現在、百万の屍が散乱し、流血は千里に及び、しかもなお勝利はいまだ決しておりません。軍功があっても、計略が常にまだ及ばないのです。このゆえに聖人は昭然として(明白に)独り思索し、欣然として(楽しげに)独り喜ぶのです。(ところが今の人は)ひとたび耳に金鼓の音が聞こえたならば武功を希み、旌旗(のぼりばた)の色を見れば軍陣を希み、軍刀の柄を手に握りしめれば戦を希み、出征し闘い合えば勝利を希みますが、これこそが主君を襄(たす)けることで(かえって主君を)破れ亡ぼす理由なのです」 武霊王は深く思い嘆いて言った。「国家の存亡は我が身にあるというのか。なんと幽微なことよ、福の生じる所とは!余はこれを聞いて、日月の巡るたび自ら内省するとしよう。いにしえは徳を修めた者は命を偽らず、要点を得た者はその口数は多くはなかったのだ」
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