駐フランス公使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:32 UTC 版)
「トーマス・ジェファーソン」の記事における「駐フランス公使」の解説
ジェファーソンは1785年から1789年まで駐フランス公使を務めていたので、フィラデルフィア憲法制定会議には出席できなかった。憲法草案には権利章典が欠けていたにも拘わらず全体的には新しい憲法を支持し、文通相手のジェームズ・マディソンから経過を知らされていた。 パリ滞在中はシャンゼリゼ通りにある家屋に住んだ。多くの時間を割いて市内の見どころある建築を探索し、またパリの提供する芸術を楽しんだ。サロン文化の愛児となり、市内の最も著名な人々に晩餐に招待されることも多かった。ジェファーソン自身もしばしばフランスやヨーロッパの社交界からの人々を饗応した。ジェファーソンはパリに娘達を伴っており、モンティチェロからヘミングス家の2人の奴隷も連れてきていた。ジェームズ・ヘミングスは、授業料を払いフランスのシェフとして訓練させた。ジェームズ・ヘミングスはジェファーソンがフィラデルフィアに居るときにシェフを務めた。ジェームズの妹であるサリー・ヘミングスは亡妻の異母妹でもあったが、ジェファーソンの幼い娘に付いて海外に渡った。ジェファーソンはこのパリでサリー・ヘミングスとの長い関係を初め、彼が死ぬまで関係は続き子をもうけている。二人のヘミングスはパリ滞在時代にフランス語を覚えた。 1784年から1785年に、ジェファーソンはアメリカ合衆国とプロイセンの間の貿易関係を構築した。プロイセンの大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ツレマイアーとアメリカのジョン・アダムズが二人ともハーグに居り、ベンジャミン・フランクリンがパリに居たので、彼等もこの動きに関わった。 フランス革命勃発直前のフランス社会をつぶさに観察し、農民の犠牲の上に成り立っていることを強く感じた。ジェファーソンは社交界や貴族の特権階級と多くの友好関係を築いたが、1789年にフランス革命が始まったときは革命支持者の側に回った。
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