か‐きょ〔クワ‐〕【科挙】
科挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 18:17 UTC 版)
科挙(かきょ、繁体字: 科舉; 簡体字: 科举; 拼音: kējǚ、満洲語: ᡤᡳᠣᡳ
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ᠰᡳᠮᠨᡝᡵᡝ、転写: gioi žin simnere[1])とは、中国で598年 - 1905年、すなわち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験[注 1]である。同様の制度は中国だけでなく、朝鮮、ベトナムにも普及した。
注釈
- ^ これを官吏登用試験とするのは誤りである。科挙時代の中国においては「官」と「吏(胥吏)」は全く異なる存在である。
- ^ 老年になって科挙に合格した人物の有名な例として、南宋時代の詹義という人物は科挙に合格した記念に『登科後解嘲』と題する詩を自作し、彼はその中で50年前には23歳だった(つまり合格時の年齢は73歳)と自虐的に語っている。
- ^ こうした州は元々学問が盛んであったという側面もあるが、福州は北宋期から、温州・明州は南宋初期から試験官による同郷出身者の進士への進士合格が増加し、この時の進士が後に試験官と同じような事を繰り返すことで特定地域における進士の再生産が行われた。
- ^ そのため、受験生は風雨を防ぐ為にカーテンを持ち込み、入り口に掛けることでしのいでいた。
- ^ ただし、答案を汚損したり、白紙のまま提出したような受験生はその場で以後の受験への参加資格が取り消された。
- ^ このように、試験は合わせて10日ほどになるほどの長期戦になるため、受験生たちは休む布団、入口にかけるカーテン、着替え、食料品、鍋などの大量の日用品を持参しなくてはならなかった。
- ^ このため、受験生の所持品検査は厳重を極め、筆の軸を割って中を調べたり、食料として持参した饅頭を割って中を調べたりするほど徹底していたという。しかし、それでも違反品の持ち込みは後を絶たず、時には本屋が出来る程の本が持ち込まれた事もあったと言われている
- ^ 用便したい場合は小道の突き当たりにトイレがあったが、席を立つ前にいちいち書きかけの答案を確認されるなど面倒だったため、受験生の多くはシビンを持参した。
- ^ このため、受験生が答案作成や飲み水として用いる水は水がめを内部に用意してそこに貯めておくようにし、足りなくなれば管を伝って補給された。また、試験官たちの食料品に関しては試験前に貢院内の倉庫に予め用意された。
- ^ このため、もし試験中に急病等で受験生が死亡した場合などには、こもにくるんで壁を越えて搬出しなければならなかった。
- ^ ただし、郷試に合格しても次の挙人覆試で落第したり、その後の中央官僚による答案の再確認の時点で合格不適当な答案とみなされた時には、挙人の資格は失われた。
- ^ しかし、70歳は官僚の定年と決められていたため、合格しても官職は与えられず、地位は名誉的な物に過ぎなかった。
- ^ この理由について宮崎市定氏は、軍隊においては武科挙に合格した者より、兵卒から叩き上げの将軍の方がより実戦的で使えたことがあるとしている。このため、武科挙合格者の大半は定年まで部隊長止まりであることがほとんどだったといわれている。
出典
- ^ 河内良弘『満洲語辞典 増補改訂版』中西印刷出版部松香堂書店、2018年。
- ^ 宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』(63版)中央公論新社(原著2009年5月15日)、4頁。ISBN 4121000153。
- ^ a b c d e 梅原郁「宋代の恩蔭制度 (創立五十周年記念論集)」『東方學報』第52巻、京都大學人文科學研究所、1980年3月、501-536頁、CRID 1390572174796288128、doi:10.14989/66579、hdl:2433/66579、ISSN 0304-2448。
- ^ 「カンペ」も!100年前の科挙登用試験 古書の教科書展示会 - AFPBB
- ^ “Chinese civil service”. Encyclopædia Britannica. 2015年5月2日閲覧。
- ^ Huddleston, Mark W. Boyer, William W.The higher civil service in the United States: quest for reform. (University of Pittsburgh Press, 1996), 9–10.
- ^ 湯浅邦弘 編「9」『テーマで読み解く中国の文化』(初版)ミネルヴァ書房(原著2016年3月15日)、223頁。ISBN 978-4-623-07509-6。
- ^ 湯浅邦弘『概説中国思想史』(新)ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書房〉、2010年10月25日、82頁。ISBN 978-4-623-05820-4。
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- ^ 岡元司「第4章 南宋期における科挙――試官の分析を中心に――」『宋代沿海地域社会史研究 : ネットワークと地域文化』汲古書院、2012年。ISBN 9784762929632。全国書誌番号:22127884 。/原論文:1998年)
- ^ 高畑常信『中国思想の理想と現実』(新)木耳社〈木耳社〉、2014年、169頁。ISBN 978-4-8393-7187-6。
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- ^ 飯山、2011年、P49-57。
- ^ 飯山、2011年、P77-87・140-141・157-158・178-179
- ^ 飯山、2011年、P163-164
- ^ 飯山、2011年、P216-246・290-291
- ^ 飯山、2011年、P290-306
- ^ 宮崎市定『科挙史』(平凡社、 1987年)164頁
- ^ “朝鮮科挙制”サムスン入社試験に異変「歴史問題」増加、国内からも疑問…韓国トップ企業“歪められる”超エリートたち 産経新聞 2014年5月8日付[リンク切れ]
- ^ https://wisdombase.share-wis.com/blog/entry/world-test-history#%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E3%81%AE%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
- ^ “[朴露子の韓国、内と外]「試験共和国・韓国」の暗い影”. HANKYOREH (2023年4月12日). 2024年1月2日閲覧。
- ^ 『日中比較教育史』佐藤尚子, 大林正昭編、春風社, 2002
- ^ 増井経夫『大清帝国』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4-06-159526-1 374頁
科挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
唐が各地に節度使の割拠を招き五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、宋は科挙を本格的に運用し名実ともに文臣官僚制が完成の域に達した。皇帝が士大夫出身の官僚を手足として国政に当たる体制は、「皇帝専制」とも称される。隋の文帝により始められた科挙制度だが、真価を発揮するのは宋代以降と言われる。宋代は歴代でも科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に3〜400人が合格した。
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科挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)
隋の文帝により始められた科挙制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。唐では科挙を通過した者の地位は概して貴族層が恩蔭(高官の子が恩典として与えられる任官資格)によって得られる地位よりも低く、また科挙に合格していざ任官しようとしても官僚の任官・昇進を司る尚書吏部は貴族層の支配する部署であり、科挙合格者は昇進においても不利になることが多かった。しかし宋代になって既存の貴族層が没落(もしくは五代十国時代に消滅)していたため、そのような事は無くなった。 宋代における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。当初は殿試により落第する者もあったが、後には落第する者は基本的に無くなる。また唐までは主に詩賦が重視されてこれが進士科とされていたが、王安石により進士科は経書の解釈とそれの現実政治への実践の論策を問うようになり、それ以外の科は全て廃止された。これ以降は進士が科挙通過の別名となった。 科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き300-400人が合格した。 科挙に通過した後、寄禄官が与えられていない状態を選人という。選人は見習い期間中の職として地方官の仕事が与えられる。地方で経験を積んだ後、中央に戻って中央の差遣と寄禄官を与えられる。この状態を京官といい唐九品制でいう所の従九品から従八品までがこの階梯になる。正八品から従七品までを朝官といい、一緒にして京朝官という。更に正七品を員郎、従六品を郎中という。 科挙合格以外にも官僚となる道が無かったわけではない。一つは恩蔭制度、また科挙に何度が落第した者に対しては任官の権利が与えられる、また大金を出して任官の権利を買うことも出来る、また地方にて長年勤めた胥吏は官僚としての地位が与えられる。しかしいずれも進士と比べれば遥かに低い地位しか与えられず、国政に関わるような高位に上れるのは進士だけであった。 出自にかかわらず試験によって選抜する科挙制度は極めて開明的な制度であったが、試験偏重の弊害が宋代に既に現れていた。これに不満を持った范仲淹や王安石は教育によって官僚育成を行うことを提案し、王安石によって実行された。元々、開封には国子監と太学という二つの国立学校があったが、これらに所属するものには科挙の応募に有利であったので、科挙が行われる直前になると入学者が殺到し、科挙が終わると皆退学するという状態で、教育機関としてはまったく機能していなかった。王安石は学生を外舎・中舎・上舎に分け、春秋年二回の試験の優秀者は順次上に登らせ、上舎の合格者を任官させる方式を始めた。これを三舎法という。後の徽宗期に大幅に拡充され、地方の府州県に於ける学校にもこれが適用されたが、この時期には単なる人気取り政策に堕しており、後に科挙に復された。 また、科挙によって立身した官僚たちは己の存在感を示すために様々な政治的な意見や提案を行った。それによって様々な政策が打ち出されていった反面、政争の頻発と宰相などの政権担当者の度重なる交替につながった。北宋成立時に生じた幕僚出身の趙普と科挙出身の盧多遜の対立、真宗時代の北人(五代王朝出身者)と南人(旧南唐などの華南出身者)の対立、仁宗時代の郭皇后廃后問題を巡って生じた慶暦の党議、英宗の実父趙允譲の待遇を巡って生じた濮議、そして神宗時代から北宋滅亡まで続いた新法党と旧法党の対立と断続的に繰り返され、その傾向は南宋時代の対金政策や朱子学を巡る論争にも影響を及ぼした。南宋におけるいわゆる「独裁宰相」の誕生にはこうした風潮を独裁的な権力の行使で解消しようとした側面があった。
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