やまと‐の‐くに【大和国】
読み方:やまとのくに
⇒大和
大和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 05:53 UTC 版)
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県。大国。
注釈
- ^ 国史に改名記事がないため時期は諸説あるが、天平宝字元年(757年)の『養老令』施行からが有力視される(上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 142-143)。
- ^ 『和名抄』の大和国式下郡大和郷(おおやまとごう)、現在の大和神社(奈良県天理市新泉町)付近(『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節より)。
- ^ 「旧高旧領取調帳」では後に大多喜県が管轄したとしているが、三河国にも飛地のあった大多喜藩は、慶応4年の徳川宗家の転封より領地を上総国夷隅郡にまとめられているため、同時に奈良県に移管されたものと思われる。
- ^ 同年4月27日(1868年5月19日)にかけて移管。
- ^ 現在の橿原市大軽町と石川町の接点丈六、ここを軽の衢という。久米町、西池尻/東池尻、高取町土佐の三説ある。
出典
- ^ a b c d 『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節。
- ^ 大和国(藩名・旧国名がわかる事典)(朝日新聞社コトバンクより)。
- ^ 『続日本紀』天平9年(737年)12月27日条。
- ^ 『続日本紀』天平19年(747年)3月16日条。
- ^ 『日本古代史大辞典』(大和書房)大和国項。
- ^ 上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 140-142。
- ^ 【秀吉と大和の城(2)】大阪の“副都”担った「郡山城」…秀吉の命受け弟・秀長が統治、強力な寺社勢力抑え100万石規模に(2/2ページ)産経WEST(2014年1月2日)
- ^ 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)12コマ参照。
- ^ 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)52コマ参照。
- ^ 『節用集 易林本』(国立国会図書館デジタルコレクション)136コマ。
- ^ 『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)索引p. 7。
- ^ 『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)p. 41。
- ^ 今谷明「室町時代の伝馬について」(小笠原長和 編『東国の社会と文化』(1985年、梓出版社))
- ^ 永島福太郎『奈良文化の伝流』(1944年、中央公論社)
- ^ 田中慶治「室町期大和国の守護に関する一考察 -幕府発給文書を中心に-」(初出:矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』(高志書院、2004年) ISBN 978-4-906641-80-2/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4)
- ^ 今谷明「室町時代の河内守護」(『大阪府の歴史』7号、1976年)
- ^ 今谷明「守護領国制下に於ける国郡支配について」(『千葉史学』創刊号、1982年)
大和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/24 16:06 UTC 版)
『古事記』神武天皇の段には、国神イワオシワクノコを「吉野国巣之祖」とする。また『日本書紀』応神天皇 19年の条によれば、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。同条では人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したようで、『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている。
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大和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:28 UTC 版)
大和国は日本における商品経済の最先進地域の一つである。札遣いも、藩札、旗本札のほか、日本最古の紙幣として知られる伊勢国の山田端書に類似した発行形態で、吉野郡の自治組織が幕府の許可を得て発行した御免銀札、大寺院や神社が発行した寺社札など、多種多様な紙幣が発行された。また、この地域の経済は、肥料(干鰯や油粕など)の購入や商品作物(木綿、菜種、茶など)の売却のために在郷町が発達し、また主な流通経路である河内国や和泉国、山城国との経済的なつながりが強かった。このため、この地域で発行された藩札、旗本札、寺社札などで、発行元によっては、国境を超えた地に居住する者たちを含め、きわめて多様な引請人を持つ場合がある。また、奈良盆地は米どころであり、米手形形式の銀札の発行例が多い。 高市郡曾我(現・橿原市曽我町)の多賀氏は、近江国の領主であったが、浅井長政、豊臣秀長などを経て徳川家の旗本となった家である。十市郡豊田(現・橿原市豊田町)などを領する佐藤氏は、関ヶ原の戦いで手柄を立て、元から領していた美濃国の所領のほかに、大和国・摂津国・近江国で加増された家である。宇陀郡福地(現・宇陀市榛原区福地)の織田氏は、織田信長の一子織田信雄の裔で、柏原藩織田氏の分家であり、交代寄合のち高家となった家である。十市郡田原本(現・磯城郡田原本町)の平野氏は、羽柴秀吉騎下の賤ヶ岳の七本槍の一人平野長泰の裔で、交代寄合表御礼衆の家である。これらの曾我多賀氏、豊田佐藤氏、福地織田氏、田原本平野氏は、それぞれ領外で取引関係にある多様な在郷商人などが引請の銀札を発行した。 戦国期に京で権勢を誇った三好氏のうち、徳川家康に取り立てられた三好可正の系統は大和国の添下郡丹後庄(現・大和郡山市丹後庄町)及び山辺郡守目堂(現・天理市守目堂町)を所領として有した家である。忍海郡西辻の水野氏は、織田信長、北条氏政などに仕え、後に徳川家の旗本となり、武蔵国の他大和国に所領を有して西辻に陣屋を置いていた家である。葛下郡松塚(現・大和高田市松塚)の桑山氏は、新庄藩桑山氏の分家であり、本家が改易された後も存続した家である。十市郡池尻(現・橿原市東池尻町)の赤井氏は、元は丹波国の土豪であり、後に徳川家に旗本として仕えた家である。高市郡坊城・曲川(現・橿原市東坊城町、曲川町)の藤堂氏は、津藩藤堂氏の分家である。山辺郡平等坊(現・天理市平等坊町)の山口氏は奏者番、伏見城番などを勤めた山口直友の裔である。これらの丹後庄守目堂三好氏、西辻水野氏、松塚桑山氏、池尻赤井氏、坊城曲川藤堂氏、平等坊山口氏は、それぞれ米手形形式の銀札を発行した。 添下郡高山(現・生駒市高山町)の東半分及び隣村の鹿畑(現・生駒市鹿畑町)を領していた堀田氏は、他に常陸国及び近江国にも所領を有し、近江・大和の所領は近江国甲賀郡上田(甲賀市水口町嶬峨)に置かれた陣屋が統括していた。堀田氏は高山において、庄屋の中谷吉兵衛による銀札を発行した。 添下郡豊浦(現・大和郡山市豊浦町)の片桐氏及び添下郡伊豆七条(現・大和郡山市伊豆七条町)の片桐氏は、いずれも小泉藩片桐氏の分家である。前者は明治元年に銭札を、後者は慶應二年に米会所から庄屋・年寄・百姓の請負による米手形形式の銀札を発行した。
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