阿片戦争とは? わかりやすく解説

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あへん‐せんそう〔‐センサウ〕【阿片戦争】

読み方:あへんせんそう

1840年から1842年にかけ、清国阿片輸入禁止によってイギリス清国との間に起こった戦争清国敗北して南京条約を結び、香港割譲したほか、広東上海など5港を開港。→南京条約


阿片戦争

作者江馬修

収載図書阿片戦争
出版社ゆまに書房
刊行年月2004.6
シリーズ名新・プロレタリア文学精選


アヘン戦争

(阿片戦争 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 00:49 UTC 版)

アヘン戦争(アヘンせんそう、: 鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭: First Opium War)は、イギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。


注釈

  1. ^ 処分中、石灰との反応により処分池の塩水は煙を上げた[33][32]。処分は公開で行われ、煙を上げる光景は絵にも描かれた[32]。この煙を上げる絵などから、後年、この処分について、「焼却」と誤り伝えられることもあった[32]
  2. ^ この当時マカオは清国領であり、ポルトガルは公式にはマカオに関する権利を一切有しておらず、居住を事実上黙認されているに過ぎなかった[45][46]。そのためポルトガルのマカオ総督は清国側の行政権行使を拒否することはできなかった[45][46]
  3. ^ イギリス側には「このとき林則徐はイギリス人の殺害を図り、井戸に毒を入れた」とする風説があり、イギリス側による文献には事実のように書かれていることがあるが、実際には林則徐は食料供給の禁止と使用人退去を命じたに過ぎない[45][47]。イギリス人退去後もマカオにはポルトガル人が従前同様に居住しているが、井戸の毒による健康被害などは発生していない。また、林則徐が求めたのはアヘン禁絶の誓約と住民殺害事件の捜査・犯人引き渡しであるにもかかわらず、それを拒否して全員の船上への退去を決めたのはエリオットである[45][47]
  4. ^ この頃アメリカ商人がイギリス商人に要求した香港沖泊地-広州間の中継運賃単価は、サンフランシスコ-広州間の運賃単価をも上回る著しく高額のものだった[39][48]
  5. ^ グラッドストン議会で「確かに中国人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる中国人側にある」と演説してアヘン戦争に反対した[59]。他方グラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に追及して彼をやり込めた[60]

出典

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  15. ^ 加藤徹『貝と羊の中国人』p.92。
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阿片戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)

ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「阿片戦争」の解説

詳細は「阿片戦争」を参照 清は広東港でのみヨーロッパ諸国交易行い公行中国語版)という清政府特許得た商人にしかヨーロッパ商人との交易認めてこなかった(広東貿易制度)。しかしインド阿片はこの枠外であり、イギリス商人密貿易によって中国人アヘン商人売っていたため清国内にアヘン大量流入していた。1823年にはアヘンインド綿花を越えて清の輸入品第一位となり、清は輸入超過銀流出)を恐れようになった北京政府内で阿片禁止論が強まっていく中、パーマストン子爵広東イギリス商人権益を守るべく、1836年12月10日チャールズ・エリオットを対清貿易監察官任じて広東派遣した。また1837年11月2日には海軍省通じて東インド艦隊軍事行動規制緩めることで清への軍事的圧力強化した。 しかし功を奏せず清朝皇帝道光帝林則徐欽差大臣任じて広東派遣し阿片吸引者の取り締まりのみならず外国人商人からの阿片没収まで行った林則徐外国人商人対し以後阿片持ち込まない旨の誓約書提出要求したが、エリオット拒否し5月広東在住全英国人連れてマカオ退去した。その後九竜半島イギリス船員による現地住民殺害事件発生したためもあり、林則徐8月15日誓約書提出しない在マカオイギリス人への食料供給禁じ商館中国人使用人退去命じたエリオットはあくまで誓約拒否したため、所在イギリス人マカオ放棄して船上逃れる羽目となった阿片禁止の報を受けたイギリス本国パーマストン子爵主導開戦論に傾き1839年10月1日メルバーン子爵内閣閣議において清遠征軍の派遣決定された。パーマストン子爵は、1840年2月現地派遣する外交官海軍に対して要港占領して揚子江黄河封鎖して不平等条約締結清政府に迫るよう訓令した。1840年6月より始まった戦争イギリス軍圧勝終わり1842年8月には中国半植民地化への第一歩となった不平等条約南京条約締結された。領事裁判権公行制度の廃止上海寧波広州福州廈門開港開港地の租借権香港割譲などを清に認めさせた。 この戦争中英国本国では庶民院において当時保守党議員だったウィリアム・グラッドストンがこの戦争を「不義戦争」と批判する質問行ったが、この際グラッドストンは「中国人井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言をした。答弁立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員野蛮な戦闘方法支持する者である」と逆に批判返して、彼をやり込めた

※この「阿片戦争」の解説は、「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の解説の一部です。
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