あへん‐せんそう〔‐センサウ〕【阿片戦争】
アヘン戦争
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アヘン戦争(アヘンせんそう、中: 鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。
注釈
- ^ 処分中、石灰との反応により処分池の塩水は煙を上げた[33][32]。処分は公開で行われ、煙を上げる光景は絵にも描かれた[32]。この煙を上げる絵などから、後年、この処分について、「焼却」と誤り伝えられることもあった[32]。
- ^ この当時マカオは清国領であり、ポルトガルは公式にはマカオに関する権利を一切有しておらず、居住を事実上黙認されているに過ぎなかった[45][46]。そのためポルトガルのマカオ総督は清国側の行政権行使を拒否することはできなかった[45][46]。
- ^ イギリス側には「このとき林則徐はイギリス人の殺害を図り、井戸に毒を入れた」とする風説があり、イギリス側による文献には事実のように書かれていることがあるが、実際には林則徐は食料供給の禁止と使用人退去を命じたに過ぎない[45][47]。イギリス人退去後もマカオにはポルトガル人が従前同様に居住しているが、井戸の毒による健康被害などは発生していない。また、林則徐が求めたのはアヘン禁絶の誓約と住民殺害事件の捜査・犯人引き渡しであるにもかかわらず、それを拒否して全員の船上への退去を決めたのはエリオットである[45][47]。
- ^ この頃アメリカ商人がイギリス商人に要求した香港沖泊地-広州間の中継運賃単価は、サンフランシスコ-広州間の運賃単価をも上回る著しく高額のものだった[39][48]。
- ^ グラッドストンは議会で「確かに中国人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる中国人側にある」と演説してアヘン戦争に反対した[59]。他方グラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に追及して彼をやり込めた[60]。
出典
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阿片戦争
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「阿片戦争」の解説
詳細は「阿片戦争」を参照 清は広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行(中国語版)という清政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。しかしインド産阿片はこの枠外であり、イギリス商人が密貿易によって中国人アヘン商人に売っていたため清国内にアヘンが大量流入していた。1823年にはアヘンがインド綿花を越えて清の輸入品の第一位となり、清は輸入超過(銀流出)を恐れるようになった。 北京政府内で阿片禁止論が強まっていく中、パーマストン子爵は広東イギリス商人の権益を守るべく、1836年12月10日にチャールズ・エリオットを対清貿易監察官に任じて広東へ派遣した。また1837年11月2日には海軍省を通じて東インド艦隊の軍事行動の規制を緩めることで清への軍事的圧力を強化した。 しかし功を奏せず、清朝皇帝道光帝は林則徐を欽差大臣に任じて広東に派遣し、阿片吸引者の取り締まりのみならず、外国人商人からの阿片没収まで行った。林則徐は外国人商人に対し、以後阿片を持ち込まない旨の誓約書の提出を要求したが、エリオットは拒否し5月に広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した。その後九竜半島でイギリス船員による現地住民殺害事件が発生したためもあり、林則徐は8月15日に誓約書を提出しない在マカオイギリス人への食料供給を禁じ、商館の中国人使用人の退去を命じた。エリオットはあくまで誓約を拒否したため、所在のイギリス人はマカオも放棄して船上へ逃れる羽目となった。 阿片禁止の報を受けたイギリス本国はパーマストン子爵の主導で開戦論に傾き、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において清遠征軍の派遣が決定された。パーマストン子爵は、1840年2月に現地に派遣する外交官や海軍に対して主要港を占領して揚子江と黄河を封鎖して不平等条約締結を清政府に迫るよう訓令した。1840年6月より始まった戦争はイギリス軍の圧勝に終わり、1842年8月には中国半植民地化への第一歩となった不平等条約南京条約が締結された。領事裁判権、公行制度の廃止、上海・寧波・広州・福州・廈門の開港、開港地の租借権、香港の割譲などを清に認めさせた。 この戦争中、英国本国では庶民院において当時保守党議員だったウィリアム・グラッドストンがこの戦争を「不義の戦争」と批判する質問を行ったが、この際にグラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言をした。答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に批判を返して、彼をやり込めた。
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