さかしたもんがい‐の‐へん〔さかしたモングワイ‐〕【坂下門外の変】
坂下門外の変
読み方:サカシタモンガイノヘン(sakashitamongainohen)
坂下門外の変
坂下門外の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 03:56 UTC 版)
年が明けて、文久2年(1862年)1月8日、訥庵は一橋家近習の山本繁太郎に慶喜への上書取次を依頼する。繁太郎は幕府に密告したため、一連の計画が幕府の知るところとなる。1月12日、訥庵は南町奉行に逮捕され、翌1月13日には思誠塾が幕府によって捜索を受けている。訥庵が逮捕されたことを受け、ついに1月15日に志士6名は江戸城坂下門外において老中安藤信正を襲撃する。信正を負傷させたものの殺害には至らず、志士6名はいずれもその場で斬殺された(坂下門外の変)。 坂下門外の変以降、訥庵に関係する人々は次々と幕府に逮捕されていく。伝馬町の獄舎の環境は劣悪で、同志の中には獄死する者が相次いだ。宇都宮藩家老間瀬和三郎らによる赦免運動により、同年7月8日に訥庵は出獄し宇都宮藩邸に預けられる。しかし、7月12日早朝にその生涯を終えた。47歳没。死因は毒殺であったという。谷中天王寺の大橋家墓地に葬られる。明治24年(1891年)、従四位を追贈される。
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