堺事件
作者森鴎外
収載図書山椒大夫・高瀬舟
出版社講談社
刊行年月1986.11
シリーズ名講談社 青い鳥文庫
収載図書高瀬舟
出版社集英社
刊行年月1992.9
シリーズ名集英社文庫
収載図書山椒大夫 高瀬舟―森鴎外全集 5
出版社筑摩書房
刊行年月1995.10
シリーズ名ちくま文庫
収載図書高瀬舟
出版社小学館
刊行年月2000.1
シリーズ名小学館文庫
収載図書編年体大正文学全集 第3巻 大正三年
出版社ゆまに書房
刊行年月2000.9
収載図書鴎外歴史文学集 第2巻 阿部一族・大塩平八郎・堺事件ほか
出版社岩波書店
刊行年月2000.10
収載図書山椒大夫 高瀬舟 改訂
出版社偕成社
刊行年月2004.6
シリーズ名偕成社文庫
収載図書山椒大夫
出版社フロンティアニセン
刊行年月2005.4
シリーズ名第2刷 (フロンティア文庫)
堺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 07:05 UTC 版)
堺事件(さかいじけん、仏: Incident de Sakai)は、慶応4年2月15日(太陽暦1868年3月8日)に和泉国堺の堺港で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)、摂津国堺の妙国寺において処刑が行われたため、妙国寺事件(みょうこくじじけん)[1]とも呼ばれる。
注釈
- ^ 名前は大岡昇平『堺港攘夷始末』による[3][信頼性要検証]
- ^ ミットフォードは、切腹の場に立ち会ったデュプティ・トゥアール艦長からその様子を聞き取っている[10]。
- ^ 森鴎外『堺事件』は「何分その惨澹たる状況を目撃するに忍びない」という表現で、助命に当ってのフランス側の感情を記した[要出典]。大岡昇平『堺港攘夷始末』は、同席したフランス側代表の若干の動揺を示す史料もあるものの、基本的には11人を処刑した時点で残りを助命することは立ち会いの以前に決められた規定路線であったとする[要出典]。これには、切腹した者が後に英雄されることを警戒し、フランスが人道的で寛大であること示す意味があった[要出典]。
出典
- ^ 堺市役所 『堺市史第三巻 本編第三』、1930年、771頁。
- ^ 徳永真一郎著、『大阪歴史散歩ーなにわ・摂津・河内・和泉ー』、創元社、1977年
- ^ 大岡昇平 『堺港攘夷始末』中央公論社〈中公文庫〉、1992年、214-215頁。
- ^ a b 八番隊を六番隊に修正しました。『土佐史談復刻叢書(3)泉州堺土藩士列挙実紀(妙国寺の切腹)』1979年、土佐史談会発行、P.19
- ^ 大岡 『堺港攘夷始末』、74-75頁。
- ^ 六番隊を八番隊に修正しました。『土佐史談復刻叢書(3)泉州堺土藩士列挙実紀(妙国寺の切腹)』1979年、土佐史談会発行、P.19
- ^ 大岡 『堺港攘夷始末』、132-133頁。
- ^ 大岡 『堺港攘夷始末』、212頁。
- ^ A.B.ミットフォード 『英国外交官の見た幕末維新』 長岡祥三訳、講談社<講談社学術文庫1349>、1998年、151-153頁。原書は1915年刊。
- ^ ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』 153-154頁。
- ^ 大岡 『堺港攘夷始末』、332頁。
- ^ 桂米朝『米朝ばなし 上方落語地図』、毎日新聞社、286頁。
- ^ a b c d e f 髙田, 祐介堺事件「殉難者」顕彰と靖国合祀
- ^ http://www.kochi-izokukai.jp/img/seinen02-kouchikengokokujinja.pdf
- 1 堺事件とは
- 2 堺事件の概要
- 3 反応・受容
- 4 堺事件を題材とする作品
堺事件
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「幕末の外国人襲撃・殺害事件」の記事における「堺事件」の解説
詳細は「堺事件」を参照 慶応4年2月15日(1868年3月8日)、フランス海軍のコルベット艦デュプレクスは堺港に入り、士官以下数十人の水兵が上陸し、市内を徘徊した。土佐藩軍艦府は警備の藩兵に取締を命じ、帰艦を諭示させたが言葉が通じず、混雑もあって水兵側は土佐の隊旗を倒伏して逃亡しようとした。このため、土佐藩側はこれを咄嗟に発砲し、フランス人11人を射殺または海に落として溺死させた。土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。遺体は16日に引き渡しを終えた。フランス公使レオン・ロッシュは、同じく2月19日に在阪各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。明治政府は事態を憂慮し、イギリス公使ハリー・パークスに調停を求めたが失敗、同月22日に明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと暴行者の処刑など全ての主張を飲んだ。同月23日に大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。立ち会っていたフランス軍艦長デュプティ=トゥアールは、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代才助に中止を要請し、結果として9人が助命された。処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流され庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後明治新政府の恩赦により帰郷した。自刃した土佐藩士は妙国寺内に厚く葬られ、遭難したフランス人の碑も神戸市立外国人墓地に建てられた。
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堺事件
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「デュプレクス (コルベット)」の記事における「堺事件」の解説
詳細は「堺事件」を参照 1868年3月8日、堺で「デュプレクス」の乗員が殺害されるという事件が発生した。殺害に関わった者の内20名が切腹とされた。だが、フランス人にとって切腹は衝撃的だったことから途中で中止するよう求められたので、切腹したのは11人であった。この事件を堺事件という。 同年4月18日、天保山沖で行われた日本海軍最初の西洋式の観艦式に参列。 同年10月、「デュプレクス」は江戸に派遣された。また、「デュプレクス」は宗谷海峡で難破したイギリスのコルベット「ラトラー (Rattler)」を救助した。
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