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三省堂 大辞林

三省堂三省堂

もり-おうがい ―おうぐわい 【森鴎外】

(1862-1922) 小説家劇作家評論家翻訳家軍医石見国津和野生まれ本名太郎別号観潮楼主人など多数東大医学部卒。日本衛生学開拓者陸軍軍医かたわらしからみ草紙」などを刊行して多彩な文学活動を展開、また、医学面でも封建性の払拭を目指し論戦をくりひろげた。晩年歴史小説史伝に進んだ。小説舞姫」「青年」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」、翻訳於母影」「即興詩人」など多数


近代日本人の肖像

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森鷗外 もり おうがい

森鷗外の肖像 その1
森鷗外の肖像 その2
文久2年1月19日大正11年7月9日(1862~1922)

島根生まれ。文学者、軍医。父は津和野藩典医明治14年(1881)東京大学医学部卒業後軍医となり、17年(1884)~21年1888ドイツ留学40年(1907)には陸軍軍医総監陸軍医務局長になり、軍医として最高職についた。大正5年(1916)予備役となり、6年(1917)帝室博物館長兼図書頭公務かたわら小説家評論家翻訳家として活躍代表作に『舞姫』(1890)、『うたかたの記』(1890)、翻訳即興詩人』(1892~1901)、『ヰタ・セクスアリス』(1909)、『雁』(1911)、『阿部一族』(1913)、『山椒大夫』(1915)、『高瀬舟』(1916)、史伝渋江抽斎』(1916)などがある。

キーワード 文学者, 医師・薬剤師等
号・別称 太郎(りんたろう) , 鷗外漁史(おうがいぎょし) , 観潮楼主人(かんちょうろうしゅじん)
著作等(近代デジタルライブラリー収載
  1. 非日本食論将失其根拠 / 森林太郎井堂, 明21.12 <YDM60782>
  2. 普国禁軍団歩兵第二聯隊隊務日記 / 森鴎外(太郎)著 陸軍軍医学会, 明21.12 <YDM52065>
  3. 陸軍衛生教程 陸軍軍医学校, 明22.3 <YDM60894>
  4. 新著百種 第12号 吉岡書籍店, 1891.1 <YDM300820>
  5. 壁湿検定報告 陸軍医学校, 明24.10 <YDM204291>
  6. 水沫集 / 森鴎外(太郎)訳 春陽堂, 明25.7 <YDM101386>
  7. 月草 / 森鴎外著 春陽堂, 明29.12 <YDM84776>
  8. 衛生新篇. [1], [2] / 森林太郎, 小池正直南江堂〔ほか〕, 明29, 30 <YDM60358>
  9. かげ草 / 森鴎外訳 春陽堂, 明30.5 <YDM100914>
  10. 西周伝 / 〔森鴎外著〕 ; 西紳六郎西紳六郎, 明30.11 <YDM7172>
  11. 西周伝 / 森鴎外著 西紳六郎, 明31.12 <YDM7171>
  12. 洋画手引草 / 森林太郎等著 画報社, 明31.12 <YDM70601>
  13. 審美新説 / 森鴎外著 春陽堂, 明33.2 <YDM69299>
  14. 審美極致論 / 森鴎外(太郎)著 春陽堂, 明35.2 <YDM69297>
  15. 即興詩人. [1], [2] / ハンス・クリスチアン・アンデルセン作 ; 森林太郎春陽堂, 1902 <YDM300855>
  16. 芸用解剖学 骨論之部 / 森鴎外(太郎), 久米桂一郎画報社, 明36.2 <YDM204429>
  17. 人種哲学梗概 / 森鴎外著 春陽堂, 明36.10 <YDM39630>
  18. 長宗我部信親 / 森鴎外著 国光社, 明36.9 <YDM88047>
  19. 衛生新篇 / 森林太郎, 小池正直著 . 3版 南江堂〔ほか〕, 明37.10 <YDM60359>
  20. 黄禍論梗概 / 森鴎外(太郎)著 春陽堂, 明37.5 <YDM39511>
  21. ゲルハルト・ハウプトマン / 森鴎外(太郎)著 春陽堂, 明39.10 <YDM84711>
  22. うた日記 / 森鴎外(太郎)著 春陽堂, 明40.9 <YDM92965>
  23. 衛生学大意 / 森鴎外著 博文館, 明40.8 (家庭衛生講話 ; 第2編) <YDM60311>
  24. 救急法及衛生法大意 / 森林太郎傍訓 軍事教育会, 明41.12 <YDM58790>
  25. 阿育王事蹟 / 森鴎外, 大村西崖春陽堂, 明42.1 <YDM14715>
  26. ジョン・ガブリエル・ボルクマン / イブセン著 ; 森鴎外訳 画報社, 明42.11 <YDM101075>
  27. 東京方眼図. [1], [2] / 森鴎外(太郎立案 春陽堂, 明42.8 <YDM24139>
  28. 建築師 / イブセン著 ; 千葉掬香(鉱造)訳 易風社, 明42.7 <YDM100984>
  29. 相聞 / 与謝野寛著 明書院, 明43.3 <YDM86205>
  30. 烟塵 / 森鴎外著 春陽堂, 明44.2 <YDM93016>
  31. 寂しき人々 / ハウプトマン著 ; 森鴎外訳 金尾文淵堂, 明44.7 <YDM101022>
  32. 人の一生 飛行機 / アンドレーエフ著 ; 森鴎外訳 ; シュトゥッケン著 ; 森鴎外訳 春陽堂, 明44.1 <YDM101326>
  33. 幽霊 / イブセン著 ; 森鴎外訳 金堂, 明44.12 <YDM101406>
  34. 日本名園図譜 / 本多錦吉郎小柴英, 明44.12 <YDM63355>
  35. 午後三時 / 吉井勇東雲堂, 明44.7 <YDM88853>
  36. ツァラトゥストラ / フリィドリッヒ・ニイチェ著 ; 生田長江弘治)訳 新潮社, 明44.10 <YDM201909>
  37. みれん / シュニッレル著 ; 森鴎外訳 籾山書店, 明45.7 <YDM101389>
  38. 新訳源氏ものがたり. [1], [2], [3], [4] / 与謝野晶子金尾文淵堂, 明45, 大2 <YDM89009>
  39. 煤煙. [1], [2], [3], [4] / 森田草平米松)著 如山堂, 明43-大2 <YDM94916>

(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)


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森鴎外

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/23 05:32 UTC 版)

(もり おうがい、1862年2月17日文久2年1月19日)– 1922年大正11年)7月9日)は、明治大正期の小説家評論家翻訳家劇作家陸軍軍医軍医総監中将相当)、官僚高等官一等)。位階勲等従二位勲一等功三級医学博士文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。




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  1. ^ 入学時は第一大学区医学校予科
  2. ^ 祖母も養子であり、祖父母の代で森家の血筋が絶えていた。このため外は、親戚の西周と血がつながっていない。
  3. ^ 外誕生の前年、祖父の白仙が東海道土山宿で病死したため、とくに祖母は外を白仙の生まれ変わりといって喜び、後年、外が留学と出征から無事帰国するたびに、はらはらと涙を落としたという(小金井(1999))。
  4. ^ 平川ら(1997a)、15頁。なお同書は、学生、作家、軍医、家庭人の側面から、外の実像にせまった。
  5. ^ ドイツ人教員がいて生徒の1割強が華族の身分。当時の父親の収入を踏まえると、西周が学費も世話をしたという説がある。
  6. ^ 校名が頻繁に変更されたように当時は、大学制度確立の過渡期にあたる。外が入学した明治6年度は、予科(旧制高等学校に相当する課程)の入学年齢制限が14歳–17歳であった(明治7年度は15歳以下の入学が見合わされており、明治8年度は入学年齢制限が16歳 - 20歳に引き上げられた)。また9月入学の予定であったものの、明治6年度は、定員100名に達しなかったため、学生募集が続けられた。最終的に実年齢をいつわった11歳の外のほか、17歳の上限年齢を超えた18歳と19歳の応募者も入学した(計71名)。なお、本科に進めるのは30名にすぎず、上級の落第者と編入生を加え、予科生は厳しい競争にさらされた。ちなみに、予科71名の新入生はドイツ語の能力で3クラスに分けられており、外の属した中位のクラスでストレートに本科を卒業したのは24名のうち11名、下位のクラスでストレートに本科を卒業したのは41名のうち2名であった(平川ら(1997a)、129–134頁)。
  7. ^ 平川ら(1997a)、112-118、142頁。なお、依田學海から漢文を、佐藤応挙から漢詩と和歌を、伊藤松渓(孫一)から漢詩を学んでいた。
  8. ^ 自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」に主人公の哲学者金井湛の体験として「寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。」と記された。
  9. ^ 卒業席次が8番となった理由として、卒業試験の最中に下宿が火事になって講義ノート類を焼失したり、外科学のシュルツ教授が外の講義ノートに漢文の書き込みを見つけて反感を買ったりした等が挙げられる。また妹の回想には、下宿に同居して外の世話をしていた祖母が、卒業試験前に文学書を読みふける外を心配するくだりがある。しかし、首席で卒業した三浦守治東京帝国大学教授が門下生に

    余ガ大学ニ在ルヤ同級生ニ森林太郎ノ俊才アリ、高橋順太郎ノ勉強アリ。共ニ畏敬セル競争者ナリキ

    と語ったなど、卒業席次上位10名の中で他者より5 - 7歳年下の外は、なかなか優秀であった。(2007)、38頁。
  10. ^ 外の陸軍省入りには、当時の軍医総監林紀とじっこんの間柄である西周の助力も働いていたようで、1882年(明治15年)5月には同期の中で初の「軍医本部付」となった。(2007)、41–42頁。
  11. ^ 小金井(1999)、35–37, 39頁。
  12. ^ 『医政全書稿本』全十二巻の前部は、陸軍衛生制度のほか、軍隊での儀礼や法制、経理、給与、設営などが取り上げられた。また、その後部は、軍陣衛生の各論で構成された。二十歳の外は、そうした膨大な内容の稿本を十ヶ月ほどで編集したのである。(2007)、45頁。
  13. ^ 外は、ドレスデンに移った年のクリスマス休暇で、ライプツィヒに出かけた。予定を延ばして滞在したものの、12月30日さらに滞在をすすめる人たちに別れを告げた。金子(1992)、15–18頁。
  14. ^ キルケの名は、ドレスデン滞在時の日記に17回登場し、外がドレスデンを離れた後も、つきあいが続いていた(金子(1992)、42頁)。
  15. ^ 近代細菌学の開祖とされるコッホは、ミュンヘン大学の恩師ペッテンコーファーと対立していたが、北里柴三郎の勧めもあり、外はコッホにも師事した。
  16. ^ 9月26日は、オランダ代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒の問いなり」と発言。翌27日の最終日は、石黒忠悳の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は、4月18日に同期の谷口謙とともに乃木希典川上操六の両少将を訪問したとき、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていない極東の小国(モンゴロイドで非キリスト教徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう。(2007)、66–67, 70–73頁。
  17. ^ 現在、来日したドイツ人女性について3人の名が挙がっている。植木(2001)は、年上の既婚者エリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert。ヴィーゲルトWiegertの可能性も指摘された)説を否定し、遺産を得ていた仕立物師の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert)(1872年12月16日- 1951年)説を新たに唱え、AnnaとLuiseが外の子供達の名(杏奴、類)と一致すること等も指摘した。外と「エリス」―ドイツ・ベルリン。しかし、その後に刊行された林(2005)小平(2006)は、植木説ではなく、従来の主流である年上の既婚者説をとった。2010年11月19日、植木説に基づくTV番組NHKハイビジョン特集「外の恋人~百二十年後の真実~」(90分)が放送された。放送直後、今野(2010)が刊行され、当時15歳のドイツ人女性が単身来日でき、また偽名でも日独間を行き来できる可能性があったこと等を明らかにした。2011年3月、六草いちかがエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト説を発表した。その根拠として、名前、出生地、帰国後の職業、外帰国時の年齢(21歳)、外の娘の名前:茉莉と杏奴(エリーゼのミドルネームと妹がアンナ)等を挙げた。六草(2011)外「舞姫」のモデルは彼女? 洗礼記録発見、経歴一致
  18. ^ 小堀(1981)、195-196頁。
  19. ^ 日本で最初に、ゾラの文学的傾向の実体を紹介するものとなった。ちなみに、日本でゾラの自然主義の影響が出始めたのは、明治30年代である。(2007)、100頁。
  20. ^ 新声社の同人は、落合直文市村瓚次郎井上通泰三木竹二外の実弟)、小金井喜美子(実妹で既婚)、外本人の計6名。ただし竹二は、「於母影」の共訳に参加していない。(2007)、103頁。
  21. ^ 『しがらみ草紙』は、3号に坪内逍遥幸田露伴の、4号に山田美妙石橋忍月の文が掲載され、その地位が高まった。最盛期に2,000部が売られた。
  22. ^ 外の「翻訳」(広義)ぶりの現代的意味は、長島(2005)が参考になる。ちなみに、『外全集』53巻(岩波書店、1951-1956年)の内訳は、著作編33巻、翻訳編18(戯曲10、小説6、戦論・医事2)巻、別巻2である。
  23. ^ 日清戦争後、東京美術学校に復職した後、審美学西洋美術史を講じた(新関(2008)、180頁)。
  24. ^(2007)、202頁)は、「遅れた社会に科学を育てるには条件が必要。それは「標準」である。「芸術」の「標準」として外は乾いた日本の土壌に「審美学」を植え付けようとした」と指摘した。
  25. ^ 当時遼東半島にいた外などとの交際は、遼東五友の交わりといわれた。その五友とは、新聞『日本』の正岡子規中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨外の5人である(佐谷(2009)、54頁)。なお、子規との交際は小倉に転勤するまでつづき、不折とは生涯つづいた。
  26. ^ 1月に創刊された『めさまし草』は、3月から「三人冗語」が掲載され、9月以降これに依田学海饗庭篁村(あえば こうそん)・森田思軒尾崎紅葉等が加わり、「雲中語」として評判になった。紅葉川上眉山正岡子規高浜虚子落合直文などが文を寄せた。また「於母影」の共訳者であった井上通泰の実弟、柳田国男も松岡国男名で歌評を書いており、夏目漱石の俳句も掲載された(3号)。
  27. ^ 池内(2001)、67頁
  28. ^ 「児玉せき(32)なる女を十八、九の頃より妾として非常に寵愛し、かつて児まで挙けたる細君を離別してせきを本妻に直さんとせしも母の故障によりて果たす能わず」とある。現代教養文庫、1992年、14頁。なお児玉に関し、森まゆみが「無縁坂の女」として章を立て、いきさつ等を記した。森まゆみ(2000)、297-343頁。
  29. ^ この人事は、外本人の受け止め方を別にして当時の状況を踏まえれば、左遷と言えるのか疑問視する声もある(松本 (1997)、108-111頁)。なお、その小倉転勤は、前任者の江口襄(作家江口渙の父。なお渙の『わが文学半生記』青木文庫、1953年には父の友人として外の名が何度か登場)が着任後わずか8ケ月で辞職(軍医の開業禁止を受け、病院での診療に専念)したために行われた穴埋め人事である。このため、後任の外は、ほかの新設5師団の軍医部長5名と同じように1902年(明治35年)3月まで在任した。
  30. ^ 「[[外漁史とは誰ぞ]]」(文壇時評)、「原田直次郎」(日本の近代西洋絵画)、「潦休録」(近代芸術)、「我をして九州の富人たらしめば」(社会問題)、「北清事件の一面の観察」(講演録)、「新社会合評」(矢野竜渓『新社会』の評論で社会主義などを記述)(池内(2001)、73-92頁)。
  31. ^ 末弟の森潤三郎は、『戦争論』の翻訳について「この事は軍人社会に兄の声望を重からしめ、山県元帥に名を知られる因となった。」と書いた(森潤三郎(1942)
  32. ^ 後年、小倉時代を素材にした短編小説『鶏』で表れたように、田中美代子は、小倉での生活によって「それまで一途に中央志向に凝り固まっていた外は、だが次第に、日本の懐深く息づいている土着の魂というべきものに目覚めていったのではなかろうか。」と指摘した([[#森外1996|森外(1996)]]、「解説」)。また、「上京して以来、(中略)ドイツでの留学生活を除いて、外の生活の場であり続けた東京と比べると、人々の生活・行動規範が緩やかで、ある意味で自由奔放な北九州のローカル都市・小倉と、そこで生活する人々の生活風俗は、外にとって異質で、新鮮な世界を意味していた」(末延(2008)、112、114頁)。
  33. ^ 貝原益軒(博多)の墓を皮切りに、加藤清正(熊本)、高山彦九郎(久留米)、広瀬淡窓(大分県日田)など、文人と武人の墓を探して参り、墓碑を筆記した。また東京に出張する途中、客死した祖父、森白仙(1861年、東海道の土山宿で没)の墓も参った。末延(2008)、117頁。
  34. ^ 西周等とともに幕府派遣留学生であった赤松則良海軍中将の長女、登志子との結婚生活は、1年半ほどで破綻した。 1888年(明治21年)9月8日外が帰国した直後、9月12日にドイツ人女性が来日して10月17日に離日した出来事をきっかけに、留学中より西周から話のあった縁談が急に進み(9月18日に祖母が、10月17日に母と弟の竹二が西邸を訪問)、翌年2月24日に外と登志子は結婚した(森まゆみ(2000)、148頁)。外の弟2人、登志子の妹2人、女中が同居し、また新居には同人などが数多く出入りした。後年、幸田露伴は、外宅に行くと夜12時になっても1時になっても引き留められたと回想し、内田魯庵も、夜が更けたので帰ろうとすると「マダ早いよ、僕の処は夜が昼だからね。眠くなったらソコの押入から夜具を引きずり出してゴロ寝をするさ。賀古なぞは12時が打たんけりや来ないよ」といわれ、実際に賀古鶴所が12時すぎに来たのに数回出会ったと回想した。1890年(明治23年)1月に小説「舞姫」が発表されると、9月13日に長男於菟が生まれたものの、10月4日外は同居する弟2人を連れて赤松家所有の家を出て行った(仲人の西周が激怒し、外は西邸の出入りを禁じられた)。 離婚の理由は、登志子の容姿や嫁姑問題(平川ら 1997a、177–178頁)など、いくつか推測されてきたものの、わかっていない。なお、於菟によれば、父外は母に結核をうつされたと祖母が語ったという。その真相は不明であるが、少なくとも外は、1909年に戯曲「仮面」(離婚して2年後に結核が発症したことを示唆)をつくり、また没する10年ほど前から結核が発症していた。森まゆみ(2000)、137-183頁。(2007)、98-99頁。
  35. ^ 1875年(明治8年)5月に島根県安濃郡で生まれ、37歳で没。外は随筆「二人の友」を発表しており、のちに芥川龍之介第一高等学校でドイツ語を習った福間を回想して随筆「二人の友」を発表した。
  36. ^ ただし僧侶の玉水は、敬愛する外の後を追うように上京したものの、嫁姑問題にかかわったため、森家に出入りできなくなり、失意のうちに東京を離れた。なお小倉の新婚時代には、家主の10歳くらいの娘で、外にかわいがられた盲目の八重も、「お祖母さんがそんなに毎日伺ってはお邪魔じゃろうと申しますが、また伺いました」といって外宅によく来ていた。ときには、「お祖母さんが怒ると私の事を穀盗人と申します。そう言う時は森さんがそれはそれは御親切に慰めて下さいます」と、目に涙をたたえて外の新妻に訴えることもあった。小堀(1981)、150頁。
  37. ^ 凱旋した1906年(明治39年)1月12日には、親族のほか、佐佐木信綱上田敏小山内薫など一同で祝宴が催された。
  38. ^ 慣例として前任者(小倉「左遷」人事をした小池正直)の推薦が必要であった。その小池は、7歳年上であったが、外とは同窓生であり、かつて外を採用してもらえるように陸軍軍医監の石黒忠悳に熱い推薦状を提出していた。学生時代の2人を知る緒方収二郎は、外を「強記は実に天才」、小池を「沈黙謹厳」と評した((2007)、41、310–311頁)。また小池は、7ヶ月間の外遊から帰国後、トップの医務局長に就任するまでの半年間、外と毎月1–2度会っていた。老朽軍医の淘汰を断行した小池の初回人事では、その淘汰で空いたポスト二つのうち第二師団(仙台)ではなく、近衛師団(東京)の軍医部長に外をつけた。外が小倉にいた1900年(明治33年)5月末、小池医務局長の推薦にもとづく軍医の叙勲が行われ、外は小池と同等に勲四等に叙せられた。 日露戦争後、第一軍–第四軍の軍医部長経験者5名のうち中央に残されたのは外だけであり、会議などでも外がナンバー2の地位にあることが明確にされた。以上のように、外に関する小池の人事では、小倉「左遷」だけが特異であった。その理由として山下(2008)は、「左遷」人事をした小池には外への悪意がなく、「左遷」には別の理由があったとした。また「左遷」人事の背景として、日清戦争後の台湾平定での脚気大流行とその隠蔽、陸軍大臣高島鞆之助とその後任桂太郎など台湾での出来事を知る将官による責任追及とその反動(山県有朋元帥や大山巌元帥や児玉源太郎などと懇意である石黒忠悳(衛生の総責任者)の保身運動)という複雑なものを挙げた。
  39. ^ (2007)、837頁。新関(2008)、180頁。
  40. ^ 外は、1910年(明治43年)12月10日、被告26人が出廷した大審院特別法廷(非公開)の高等官傍聴席にいたとの説がある。なお同年12月14日与謝野鉄幹と大逆事件弁護人の平出修とを供応した。その平出は、外から一週間にわたって無政府主義社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。平川ら(1997b)、303–306頁。
  41. ^ [[#森外2000|森外(2000)]]、「文芸の主義」138–140頁。初出1911年4月。
  42. ^ 陸軍に絶大な影響力をもつ山縣有朋とは、親友の賀古鶴所をとおして関係があった。1906年(明治39年)6月10日外と賀古が佐佐木信綱井上通泰ら4名を酒楼「常盤」に招いて歌会を起こすことを勧め、その後、賀古が山縣に話のついでに告げたところ、山縣も力をそえることになった((2007)、285頁)。その歌会常盤会は、山縣が他界するまで15年間つづいた。もっとも5ケ月後、前年から体調を崩していた外も他界した。なお、外が山縣の誕生祝の宴に初めて招かれたのは、陸軍省医務局長を退く前年の1915年である。
  43. ^ 末延は、小説「鼠坂」についての見出しに「「剣」に屈服した新聞記者」と副題をつけた(末延(2008)、246–281頁)。
  44. ^ 池内(2001)、137頁。
  45. ^ 乃木希典の殉死と「興津弥五右衛門の遺書」に関する通説・定説には、批判もある(池内(2001)、147–157頁)。
  46. ^ 外の歴史小説は、「阿部一族」、「大塩平八郎」、「堺事件」、戯曲「曾我兄弟」(1914年3月)まで「権力と民衆」への視点を基本構図としながらも、殺伐とした物語が多かった。 「安井夫人」(1914年4月)以来、「山椒大夫」、「じいさんばあさん」、「最後の一句」、「高瀬舟」など家族の情を主体としたものが多くなっていく。(2007)、655頁
  47. ^ 「空車」に対し、これまで様々な解釈がなされている。近年も注目すべき解釈が提示された。池内(2001)、198–207頁。
  48. ^ 唐木順三にしたがえば、「礼儀小言」は大正期の日本人の暮らしと思想のあまりの大変動に恐怖を感じた明治人、外の大正的なるものに対する深刻な憂いの表明である(片山(2007)、106頁)。
  49. ^ 帝室博物館では月・水・金曜日(8時から16時まで)に、図書寮では火・木・土曜日(8時から13時まで)に勤務した。 なお、博物館総長として毎秋、正倉院の虫干しに立ち会わなければならず、奈良や京都に1ケ月ほど滞在していた。また、総長就任の4年間で博物館の歳出が大幅に増え、就任4年目で就任直前の2倍強になった。館内の構造物について「分類陳列」方法があらたまり、「時代別陳列」に変更された。また、正倉院の参観資格が緩和され、帝室技芸員や古社寺保存会委員や美術審査員などのほか、「学術技芸ニ関シ相当ノ経験アリト認メタル者」にも参観の道が開かれた。(2007)、705-707、785頁。
  50. ^ すでに臨時宮内省御用係として1913年(大正2年)2月から、勅語令旨など、特別な文章の起草、執筆にかかわっていた。 1915年(大正4年)5月には、即位式前の大正天皇から漢詩を所望され、「応制の詩」をつくった。なお、御用係は総長・図書頭就任時に免じられたものの、特別な文章へのかかわりは1921年(大正10年)頃まで続いた。(2007)、625、702–703頁。
  51. ^ 一連の経緯は、猪瀬(2002)が詳しい。
  52. ^ ただし、遺言を残した翌7月7日に天皇と皇后から葡萄酒が下賜され、8日に摂政宮(のちの昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。なお外本人は、遺言を残した6日夜半から容体が悪化し、7日夕刻から昏睡状態に入っており、没した翌10日の東京朝日新聞が最期の様子を次のように報じた。

    8日午後の注射以来少しく容体を持直し、午後10時頃には何事か看護の人に言はうと試みていたが聞きとれなかった。それから不安のうちに夜が明けて9日午前4時にわかに容体が変わったので……

    (2007)、811-813、843頁[一部を平仮名にし、句読点を入れた]

    もっとも、死去する前日の8日に従二位に叙せられたことで、大谷(1983)(2000)外最後の遺言を疑問視し、外の叙爵への執着を指摘した。志田(2009)も同書を踏まえ、外が臨終の際に袴をはいていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘した。
  53. ^ 「立ち依(よ)らば、大樹の陰、その名は外、森林太郎」と書いた太宰治は、希望したとおり、外の墓の前(はす向かい)に埋葬された(猪瀬(2002)、9頁)。
  54. ^ たとえば、日本初の西洋風演出による新劇運動として、その後の演劇界に多大な影響を与えた自由劇場の第一回旗揚げで上演されたのは、イプセン作・外訳「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(小山内薫の演出)であった(1909年11月)。 当時の外は、「草創期の新劇にとって非常に大きな力」となり、「ある時期、外が西洋の近代戯曲への窓口だったといっていい」とまで評価されている。(平川ら(1997c)、176–177頁)。
  55. ^ 国民歌劇協会が作曲家グルック生誕200年を祝って1914年大正3年)7月2日に上演を予定し、外に訳を委嘱した。ただし、第1稿は留学先のドイツから持ち帰った台本を底本としたため、協会の楽譜に合わず、その後、第2稿は完成したものの、第一次世界大戦の勃発など諸般の事情によって上演されなかった。 しかし、91年後の2005年平成17年)9月18・19日、その幻のオペラは、関係者の尽力により、外が希望したフルオーケストラで初演された(上野・東京藝術大学奏楽堂)。DVD:森外訳オペラ『オルフエウス』紀伊国屋書店、KKCS-65。
  56. ^ たとえば、1889年(明治22年)8月、発足したばかりの日本演芸協会の文芸委員になっており、同年10月刊行の『しがらみ草紙』創刊号で「演劇改良論者の偏見に驚く」を発表。
  57. ^ 田山花袋は、

    私は殊に外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。

    「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月

    と書いた。 日露戦争中、第二軍写真班の取材記者として5ケ月ほど従軍した花袋は、宇品港のある広島市本町の宿に同軍軍医部長の外を訪ねており(初対面)、2人は文学談義を交わすなど頻繁に会っていた(平川ら(1997a)、388、403–405頁)。
  58. ^ 外が日本の近代美術史に残した足跡の一つに、実質的編集者として展覧会カタログ『原田先生記念帖』を発行したことが挙げられる。その展覧会とは、1909年(明治42年)11月28日(日曜日)、東京美術学校校庭の校友会倶楽部で開催された「原田直次郎没後十周年記念遺作展」である。 故人は、東京美術学校と関係がなかったものの、かつて同校で教鞭をとっていた外が発起人に黒田清輝をまきこみ、校友会倶楽部での展覧会開催が実現した。その展覧会カタログは、全出品作23点の写真と、黒田清輝松岡寿、長沼守敬など同時代人による回想とが掲載されており、明治美術史の貴重な資料となっている。また、日本にまだ美術館学芸員が存在しなかった当時、公務(医務局長等)と執筆活動で多忙をきわめていた外がやり遂げたことは、今日の美術館学芸員の先駆的仕事でもあった。新関(2008)、138–140頁。
  59. ^ 弟子の有無に限らず、松本清張による外と漱石の比較が興味ぶかい(松本(1997)、93–97頁)。なお、外と漱石の対比は、生前の外を知る平塚らいてうもしており、(金子(1992)、314-315頁)で読むことができる。
  60. ^ (2007)、299頁。
  61. ^ そうした外の女性観については、[[#森外2006|森外(2006)]]が参考になる。同書には、一葉や晶子やらいてうの評なども集められている。 また、金子(1992)には、外と女性解放運動に関する記述があり、らいてうの回想文を引用(322頁)し、外が日本初の女性団体新婦人協会の設立にどう関わったのか等を紹介している。ちなみに、若き日の外は、1885年(明治18年)9月28・29日にライプツィヒでドイツ初の女性団体「独逸婦人会」(1865年設立)の第13回総集会を傍聴していた。
  62. ^ その創設の半年前、1908年(明治41年)1月18日に海軍軍医の本多忠夫(1913年軍医総監1915年海軍省医務局長)は、医学雑誌『医海時報』の掲載文に「脚気調査会の設置は、早くからわれわれの切望してきたところである」と記述し、その掲載誌も脚気調査会の設置を強く求めていた(山下(2008)、344頁)。
  63. ^ 山下はつづけて「脚気根絶への道を拓いた森林太郎の功績は、ひときわ高く顕彰しなければならない。(中略)論理主義の森と実践主義の高木兼寛とは見解と手法に相違があり、それが一見対立的な姿に見えた。しかし「脚気の撲滅」という究極の目的は同じであった。(中略)/明治の脚気紛争のなかに出現したこの森林太郎高木兼寛の脚気業績は、医学史上不滅の業績である。末永く顕彰記念しなければならないのである。」と記述した(山下(2008)、461頁)。
  64. ^坂内(2001)、211–231頁)は、外が最後まで細菌説に固執したという見解のもと、1908年(明治41年)7月4日の調査会(第1回会合)で寺内正毅陸軍大臣が麦飯の効用を強く示唆したにもかかわらず、次の会合で示された活動方針から麦飯を含む栄養の問題が排除され、また調査会発足時の委員である都築甚之助が細菌説から栄養説に転じた直後に委員を罷免された等の見解を示し、調査会の活動を否定的にとらえた。たしかに調査方針では、微生物学など「学」のついた研究分野までしか明記されておらず、その第二条に列記された研究分野は、微生物学医化学病理学・病理解剖学、臨床医学、流行病学であり、栄養学がない(山下(2008)、362頁)。もっとも、医化学を修めた佐伯矩によって日本で栄養学が芽生えたのは、調査会が設立されてから6年後の1914年(大正3年)であった。なお初期の調査会では、1910年(明治43年)3月–10月と1911年(明治44年)6月–1912年(大正元年)10月の2回にわたり、食餌試験が行われた。また、坂内(2001)は都築が「罷免」されたと理解したのに対し、(山下(2008)、375頁)は「辞任」とする。その都築は、1910年(明治43年)3月の調査会で「脚気ノ動物試験第一回報告」をしており、同年12月9日に委員を辞めた。翌春、東京医学会総会で未知栄養障害説を発表(脚気ノ動物試験第二回報告)しており、のちに森委員長の配慮によって調査会でも発表した。その後も、製糠剤アンチベリベリンの開発とその効否試験など、精力的に研究をつづけた。
  65. ^ 1914年(大正3年)9月に刊行された外と小池正直の共著『衛生新編』(改訂増補第5版、上下2冊、全1,830頁)では、はじめて「脚気」が記載された。ただし、当時脚気の原因をめぐって医学界が混乱していたこともあり、権威者の見解を列記しただけで、外自らの見解を記述していない。山下(2008)、421–422頁。
  66. ^ 志田(2009)、16–18、237頁。
  67. ^ 山下(2008)、471–472、448頁。また山下は、ビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世に対して安易に批判すべきではないとした。特に「基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識がない」門外漢による批判をいましめた。
  68. ^ 後年、寺内は脚気病臨時調査会の第1回会合のあいさつで、自ら長年脚気を患い麦飯で治癒した経験があること、陸軍への麦飯導入を石黒に激しく反対されたことを披瀝(ひれき)し、

    〔日清戦争〕当時は此席に居らるゝ森局長の如きも亦石黒説賛成者にして余を詰問せられし一人なりし

    と発言した。
  69. ^ 山下 2008、289頁
  70. ^ 兵食試験をあたかも脚気の試験であったかのように誤用し、試験成績を独断的にゆがめたのが上官の石黒忠悳であった。石黒の誤用により、兵食試験は誤解されたとの見解。山下(2008)、448–449頁。
  71. ^ 史伝の新版は、『鴎外歴史文学集』(全13巻、岩波書店)に、一部の小説作品や、漢詩と共にある。
  72. ^ 歴代医学部長
  73. ^ 嵐山 2000






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