はい‐りゅう〔‐リウ〕【配流】
はい‐る【配流】
流罪
(配流 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 09:37 UTC 版)
流刑(るけい、りゅうけい)とは、刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送り、その地への居住を強制する追放刑の一種[1]。日本においては律令制の五刑の一つ流罪(るざい)が知られ、流刑と同義語で用いられることもある。流刑地に処することは配流(はいる)という。
注釈
- ^ この刑を導入することを主張した源賀がその根拠として用いたのが『尚書』舜典であり、儒教思想的な要素が加えられることで徒遷刑の性格を大きく変えるとともに引き続き正刑である流刑の根拠としても用いられ、更に「流刑(流罪)」の名称の由来になったとも考えられている[17]。
- ^ 類似の措置として加害者を強制的に移住させて被害者や告発者およびその家族と接触させない「移郷」と呼ばれる措置があることから流刑の距離も居住地からの距離とする説が通説とされている。一方で、恩赦として都に近い場所に移す措置が行われる場合があり、(居住地と都が三千里以上離れているケースなど)居住地によってはさらに遠方に送られる可能性を指摘してあくまでも皇帝のいる都から遠隔地への放逐が流刑の目的であり、距離の基準は都であるとする異説もある。なお、この議論は畿内を基準とした日本の流罪の距離が中国と異なる仕組を導入したのか、中国の仕組を日本に当てはめたものかという問題にもつながることになる[18]。
- ^ 始め保元の乱に連座して土佐へ流され、帰京後太政大臣に登ったが、治承三年の政変によって再度尾張へ流された。
- ^ 始め長徳の変で出雲へ流されたが、のち優詔によって但馬に留め置かれた。
出典
- ^ 石井良助. "流刑". 百科事典マイペディア. コトバンクより2023年8月19日閲覧。
- ^ 『人物日本の歴史5』105頁。
- ^ 小石 2005, pp. 7, 12–13.
- ^ a b "流罪". 百科事典マイペディア. コトバンクより2023年8月19日閲覧。
- ^ 小石 2005, pp. 14–15.
- ^ 渡邉俊 2016, p. 40-41.
- ^ 渡邉俊 2016, p. 45-48.
- ^ a b 渡邉俊 2016, p. 38.
- ^ 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』P.94
- ^ 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』P.97-98
- ^ 清水克行「室町幕府「流罪」考」『室町社会の騒擾と秩序』(吉川弘文館、2004年) ISBN 978-4-64202-834-9
- ^ a b c 山本清司「関東幕領に於ける遠島刑」『法政史学』第14巻、法政大学史学会、1961年10月、92-130頁。
- ^ a b 小石 2005, p. 39.
- ^ 小石 2005, p. 105.
- ^ 手塚豐 1954, p. 1-2.
- ^ 手塚豐 1954, p. 19、21.
- ^ 辻 2010, pp. 26–31.
- ^ 辻 2010, pp. 78–88, 97.
- ^ a b Archives, The National. “The National Archives - Homepage” (英語). The National Archives. イギリス国立公文書館. 2022年10月4日閲覧。
- ^ 実業之日本社『ブルーガイドわがまま歩き16 オーストラリア』2016年、33頁
- ^ 実業之日本社『ブルーガイドわがまま歩き16 オーストラリア』2016年、70頁
- ^ “幕末・牟岐沖漂着の異国船 英囚人強奪の海賊船か”. 徳島新聞 (2017年6月1日). 2019年10月3日閲覧。
- ^ 実業之日本社『ブルーガイドわがまま歩き16 オーストラリア』2016年、160頁
- ^ “囚人、流刑囚 オーストラリア辞典 - 大阪大学大学院 西洋史学研究室”. www.let.osaka-u.ac.jp. 2022年9月12日閲覧。
- ^ “Convicts and the British colonies in Australia”. オーストラリア政府. 2016年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月8日閲覧。
- ^ a b c “Chronologie relative à la déportation, transportation et relégation française”. archive.wikiwix.com. 2022年10月4日閲覧。
- ^ a b c d e イヴ・ジャンクロ、小梁吉章「フランス刑法の200年」『広島法学』第36巻第3号、広島大学法学会、2013年1月18日、92-130頁。
- ^ 遠藤 誠. “パナマの法制度の概要”. BLJ法律事務所. 2023年4月12日閲覧。
- ^ 市川本太郎 「日本律令の刑罰と中国思想」『国士舘大学文学部人文学会紀要』8巻 国士舘大学文学部人文学会、1976年1月、115頁。
- ^ 小山松吉 「我國に於ける流刑に就て」 『早稲田法学』10巻 早稲田大学法学会、1930年3月、4頁。
- ^ 県指定有形民俗文化財 流刑小屋こきりこの里・上梨
- ^ 籠の渡し五箇山 合掌の里
- ^ フランツ・シュミット 『ある首切り役人の日記』 藤代幸一訳 白水社 2003年 ISBN 4560073643 p.96.
- ^ “都市空間の変遷に関する歴史的考察”. 京都大学 (1994年3月23日). doi:10.11501/3094410. 2022年9月28日閲覧。
- ^ サクラ : 日本から韓国へ渡ったゾウたちの物語 著者:キムファン 出版社:学研教育出版 出版年:2007 ISBN:4052025261、9784052025266
- ^ 『朝鮮王朝実録』
- ^ ゲオルギー・マナエフ (5月 10, 2021). “人間扱いされたロシアの鐘:投獄、処刑されることも”. Russia Beyond 日本語版. 2023年7月8日閲覧。
- ^ レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:07 UTC 版)
大溝藩は緊急に陣屋敷地内に牢屋敷を増築し、配流人を迎えた。光寧は重蔵を丁重に扱ったと言われている。時の著名人でもあった近藤は、小藩といえど京に近く学問や見識を得ることへの関心が高かった大溝藩において、重蔵は格好の珍客とも言えた。流人ではあったが近藤は書物を与えられ、藩士を相手に意見交換を行ったり、藩士と漢詩を唱和したりしていたことが伝わる。近藤は大溝で本草学書『江州本草』全30巻を著した。大溝を中心とした近江国の植物の、いわゆる植物図鑑であったとされるが、現存しない。近藤は流罪中の罪人であり、当初の監禁状態が緩んでいたとしても陣屋周辺の散策採集であり、近江国内を自由に出歩くようなことはできなかったため、当然ながら大溝藩内部の協力があったと推測される。 配流のまま、文政12年6月16日(1829年7月16日)に同地にて死去。享年59。大溝藩内の円光禅寺の塔頭瑞雪院に葬られた。死後の万延元年(1860年)に重蔵の連座処分は赦されたが、長男の富蔵は半世紀以上赦免されず、富蔵による亡父の墓参は、富蔵の流刑から53年を経た明治13年(1880年)にようやく実現した。 明治44年(1911年)、正五位を追贈された。
※この「配流」の解説は、「近藤重蔵」の解説の一部です。
「配流」を含む「近藤重蔵」の記事については、「近藤重蔵」の概要を参照ください。
配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 05:47 UTC 版)
四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。なお配流先については、伊予から筑前へと移されたという説と当初より大宰府に流されたという説とがある。 工藤雅樹は、伊予から筑前に移された理由を「頼義が背後におり、奥六郡の支配権を清原氏から取り戻そうとしていたため、朝廷がそれを防ごうとした」と推察している。
※この「配流」の解説は、「安倍宗任」の解説の一部です。
「配流」を含む「安倍宗任」の記事については、「安倍宗任」の概要を参照ください。
配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)
関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた(『上田軍記』)。信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くした。 昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かった。昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯嶋市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った(『滋野世記』)。昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっている(『真田御武功記』)。 高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わる。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われている。なお、流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が伺える。
※この「配流」の解説は、「真田昌幸」の解説の一部です。
「配流」を含む「真田昌幸」の記事については、「真田昌幸」の概要を参照ください。
品詞の分類
- >> 「配流」を含む用語の索引
- 配流のページへのリンク