かんせい‐の‐かいかく〔クワンセイ‐〕【寛政の改革】
寛政の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/07 10:09 UTC 版)
寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代中期、松平定信が老中在任期間中の1787年 - 1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革、天保の改革と合わせて三大改革と称される。
注釈
- ^ 一揆の増大は、重税に耐えかねてという面もあった。田沼は米以外の課税を推進したが、だからといって年貢を減らしたわけではなく、新たな課税と共にできうる限りの高年貢率の維持に腐心した。
- ^ 明和2年、勘定所に直接訴える駆込訴を一切受理しないことにした。明和6年、一揆勢の要求は理由を問わず受理しないこと、また密告の推奨。また大名・旗本屋敷の前で強訴することをこれまでは重罰を科さなかったが以後は理由を問わず処罰。安永6年、強訴・徒党に対して頭取以下の参加者に対して磔・獄門・死罪・遠島の厳罰にした。
- ^ 田沼が丁銀から南鐐二朱銀への改鋳を推し進めた結果、秤量銀貨の不足による銀相場高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁に至ることとなり、江戸の物価は高騰した。凶作による商品の供給不足もあり、年号とかけて「年号は安く永しと変われども、諸色高直(こうじき)いまにめいわく(明和9/迷惑)」と狂歌が歌われた。また歴史学者の西川俊作は、自書『日本経済の成長史』の中で二朱銀の流通がゆっくりとしか拡大しなかったことから、意次の目的は、貨幣制度の統一ではなく、専ら貨幣発行益を獲得することにあったと結論付けている。
- ^ 1780年代、田沼が銭を大量発行したことで銭安になっており、西日本では計算通貨として秤量銀貨を使った方が有利だった。また、基本的に銭しか使わない庶民は銭安に苦しんだ。
- ^ 寛政の改革以前は山田羽書には準備金はなく、御師個人の信用と不動産の保証のみであったが、寛政の改革以降は大阪城に保管された羽書株仲間の上納積立金計8,080両と、羽書取締役6名の上納金5,500両の正貨準備金を保持することになるなど、より近代的な仕様となり信用強化が行われている。また、羽書の発行限度も原則として20,200両とされていたが寛政の改革で山田奉行管轄となった時には発行高は28,283両余と、8,083両余の空札が出ていた為、全ての空札を銷却を命じられるなど、信用崩壊の危機を脱している。
- ^ 8万両にのぼる公金の貸付けを田沼の時代にも実施している。ただし、これは江戸町人にのみ貸し付けられたものであり、田沼時代よりも規模を拡大し代官などを駆使して直接農村まで貸付し、その利息を農村や鉱山の復興に宛てた寛政期はさらに深化している
- ^ 田沼時代の支出削減政策として、予算制度を導入し各部署に予算削減を細かく報告させ、予算削減に努めたこと。禁裏財政への支出削減をかけたこと。大名達への拝借金を制限したこと。国役普請を復活させ工事費の負担を転化させたこと、認可権件を行使して民間の商人に任せるのを多用したこと。たびたび倹約令を出し支出を抑制したことなどがある。
- ^ 天明の大飢饉の時、幕府は飢饉に対し蓄えておくはずの城米・郷倉米を「役に立たない」という理由で備蓄を放棄していた。江戸浅草の御蔵の米備蓄も既に廃止されていた。
- ^ 棄捐令発布当初、札差の取り分は年利12%のうちの2%だったが、公儀との交渉の結果12月26日、6%と決着して札差は矛を収めた。公儀からの金をそのまま武家に仲介するだけで利息の半分を得ることができ札差としても利が多かった。また、翌年7月には武家に貸した額の4割を会所から低利で貸し出す措置が決まった。 また、江戸時代には今の銀行が行っている預かった預金を他者に融資し市場に還流されるような仕組みがないため、商人などの富裕層が退蔵が進むと貨幣の流通量が減った結果、景気が落ち込むという現象が発生する。そのため、棄捐令や貨幣改鋳などの政策は豪商に退蔵される貨幣を吐き出させ貨幣供給量を増やすことで経済の停滞を防ぎ経済活性化を目的とする富の再分配の施策であったという説も存在する。
- ^ 林子平が処罰され理由の一つとして「海国兵談」を出版した時期がまずかったという理由も存在している。当時、二度にわたる異国船への通達の直後にロシアによる朝鮮侵略の噂が上方にまで広まっていた上に、天候不順による米価の高騰と合わさって打ちこわしが起こり得ない状況となっていた。そんな繊細な時期での異国脅威論は幕府から見て社会の混乱を助長するものでしかなかった。
出典
- ^ a b c d e 徳川林政史研究所『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日。
- ^ a b 高木久史『通貨の日本史―無文銀銭、富本銭から電子マネーまで―』(中公新書、2016年)
- ^ 徳川黎明会徳川林政史研究所監修『江戸時代の古文書を読む―寛政の改革』(東京堂出版、2006年)p. 8
- ^ a b c d e 高澤憲治 著、日本歴史学会 編『『松平定信』〈人物叢書〉』吉川弘文館、2012年9月1日。
- ^ 藤田 覚『日本近世の歴史〈4〉田沼時代』吉川弘文館、2012年5月1日。
- ^ 藤田覚『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書、2018年)
- ^ 辻善之助 1980, pp. 345–357, 解説 佐々木潤之介.
- ^ 藤田覚 2002, pp. 17–29, 「享保の改革」.
- ^ a b 磯田 道史『NHKさかのぼり日本史(6) 江戸“天下泰平"の礎』NHK出版、2012年1月26日。
- ^ a b c 藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』中央公論新社、1993年7月25日。
- ^ a b c 藤田 覚『近世の三大改革 (日本史リブレット)』山川出版社、2002年3月1日、30-59頁。
- ^ 坂本賞三 ・福田豊彦監修『総合日本史図表』(第一学習社、2000年1月10日 改訂11刷発行) 246頁に「1790 11 江戸からの帰村を奨励」と記載されている。
- ^ a b 山室 恭子『江戸の小判ゲーム』講談社、2013年2月15日、69,70,71,72,73,91,92頁。
- ^ “貸付金とは・意味”. 2021年2月27日閲覧。
- ^ 藤田覚『幕末から維新へ』(岩波新書、2015年5月21日)99頁
- ^ 藤田覚『幕末から維新へ』(岩波新書、2015年5月21日)100-101頁
- ^ 関口すみ子『御一新とジェンダー―荻生徂徠から教育勅語まで―』(東京大学出版会、2005年) ISBN 4130362232 pp.91-98.
- 1 寛政の改革とは
- 2 寛政の改革の概要
- 3 主な政策・改革
- 4 脚注
- 5 外部リンク
寛政の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:17 UTC 版)
詳細は「寛政の改革」を参照 将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。 寛政元年(1789年)、島津重豪の娘・近衛寔子と結婚している。 寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、さらに尊号一件なども重なって、次第に家斉と定信は対立するようになった。寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。 ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換したことを示すわけではない。家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命した。これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で定信の政策を継続していくことになる。このため彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
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寛政の改革
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寛政の改革において、老中松平定信に重用され、札差仕法改革に参与して様々な献策をしており、棄捐令の作成にもその意見の多くが取り入れられている。 寛政元年(1789年)の棄捐令の発令後も、札差仕法の専任担当者に選ばれ、さらに猿屋町貸金会所の運営も任され、会所の建物が竣工されるまで樽屋の役宅を札差掛の役所として使うこととなった。 寛政2年(1790年)には猿屋町会所勤務中の帯刀を許可される。会所勤務中のみであり彼一代に許されたことであるが、天和3年(1683年)2月に町年寄が帯刀を禁止されてから、107年ぶりに帯刀の特権を取り戻したのである。 また、同年4月には札差仕法改正の勤務に努力したとして樽という苗字を称することが許され、以後樽屋は「樽」姓を名乗ることとなる。
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寛政の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)
天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを機に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。 老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。しかし、定信は吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。 改革直前の状況を見てみると、田沼意次の政治により武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していた。手余地・荒地が広がり、天明年間に続出した飢饉にて離村した農民は都市に大量に流入し社会秩序を崩壊させた。寛政の改革はこのような諸問題の解決に向け綱紀粛正、財政再建、農村復興、民衆蜂起の再発防止などといった問題に立ち向かっていった。田沼が発布した天明三年からの七年間の倹約令を継続し、財政の緊縮を徹底し、諸役人の統制を行った。
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寛政の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:13 UTC 版)
詳細は「寛政の改革」を参照 天明の大飢饉によって日本の農業人口は大いに打撃を受けていた。1786年の人別帳を見ると、その前の調査年(1780年)と比較して農業人口が140万人も減少している。これは当時の全人口は3千万人の約4.6%の数値となる。この人別帳からいなくなった140万人は、すべてが天明の大飢饉で死んだわけでなく、その多くが人別帳を離れて江戸などの都市へ流入するなどして離村や無宿化し社会問題化していた。幕府財政も天明の大飢饉の被害を受けて1788年(天明8年)には幕府の金蔵は81万両しか残っておらず、さらに天明の大飢饉の損害と将軍家治の葬儀によって幕府財政は百万両の赤字が予想されていた。寛政の改革ではこれら天明の大飢饉の被害への対応と幕府財政の回復が求められることとなった。 天明の大飢饉直後の時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。そのような増税が厳しい状況であった為、老中・松平定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。結果、幕府の赤字財政は黒字となり、6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができていた。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった(p102) なお、通説では定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。定信は反田沼を唱えたが現実の政治は田沼政治を継承した面が多々みられる。とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させている。幕府が改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった(p90)。 田沼時代に構想された蝦夷開発を否定したとも通説で言われるが、実際には寛政の改革当時の定信を含め幕閣の間において蝦夷開発構想はむしろ肯定的に支持されていた。藤田覚は蝦夷開発の構想は田沼失脚後も勘定所を中心に老中を含む幕府のかなりの部分にまで支持されて浸透していたと述べている。蝦夷開発は1799年(寛政11年)に東蝦夷地の幕府直轄に、1807年(文化4年)に松前を含む全蝦夷地が幕府直轄地として編入され、最終的に蝦夷地警衛体制の縮小を理由に1821年(文政4年)に中止されるまで続くこととなる。 定信は改革わずか6年目にして失脚して老中を辞任する。これは尊号一件などにより11代将軍・徳川家斉の不興を買ったことなどが理由である。ただしその後も定信派の松平信明が老中首座となる。信明をはじめ戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが幕政を主導することになり、これを「寛政の遺老」と呼ぶ。これによって寛政の改革の政策は実質的に継続することとなる。ただし田沼時代に田沼意次を支えた水野忠友や、息子の意正が復権するなど、田沼時代への回帰も見られる。しかし1817年(文化14年)に信明が死去すると、これに前後して他の遺老たちも引退してこの政権も終焉を迎える。
※この「寛政の改革」の解説は、「幕政改革」の解説の一部です。
「寛政の改革」を含む「幕政改革」の記事については、「幕政改革」の概要を参照ください。
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