隠居後
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勝俊は剃髪して京都東山に隠棲し、高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営んで、長嘯子と号した。この隠棲地には「歌仙堂」と称する小閣があり、その2階には三十六歌仙図を掲げた。 その後、長嘯子(勝俊)は挙白堂で1640年頃まで和歌を詠み続け、後水尾天皇が勅撰したと伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている。 最晩年は山城乙訓大原野(西山)の勝持寺の畔に移住し、西山樵夫(西山樵翁)と称した。隠棲後も後妻か娘かは不明だが、家族と手紙のやりとりはあったらしい。 慶安2年(1649年)に死去した。墓は高台院らが眠る高台寺にある。遺された和歌作品の数々は、弟子の山本春正らによって編纂された歌文集『挙白集』に収載されている。 木下長嘯子(勝俊)は、小堀政一や伊達政宗といった大名をはじめとして、林羅山や春日局といった幕府の要職にあった人たちや、藤原惺窩とその息子の冷泉為景(叔父・冷泉為将の養子)、松永貞徳、中院通勝たち文化人らとも交流を持った。弟子には先に挙げた山本春正や岡本宗好、打它公軌といった人たちがいる。また、石川丈山、下河辺長流や山鹿素行にも私淑され、山鹿素行には住居の訪問を受けている。なお、勝俊は吉備大臣入唐絵巻を所有していたことでも知られる。
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隠居後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:21 UTC 版)
兼山村の西山本家は義弟養運が継ぐも、文化7年(1810年)夭折、その子養哲も文政8年(1825年)夭折し、遺児太中の後見者となった。母方の伯父仙石三郎左衛門に預けた後、自身の家に引き取って医業を教え、文政12年(1829年)17歳で京都に遊学させたが、翌年春発病して6月死去し、本家筋は断絶となった。 同年8月西山家存続のため、次男伊藤圭介門人大岩養見(養節)を養子に取り、名古屋の家で医業を教えた。天保3年(1832年)6月旧師野間休山の子野間昌甫により病用勤め辞職が出願され、11月兼山村に養節を連れて医業を始めさせた。しかし、御嶽宿・伏見宿の飯盛女を家に連れ込み、偽証文で借金を作るなど素行が悪く、天保4年(1833年)1月2日大病を患うと、西山家には障りが取り憑いているとして大岩家に呼び戻され、間もなく死去した。 玄道は名古屋の家を次男圭介に相続後、兼山村に隠居していたが、その後故郷久々利村に移り、千村平右衛門家侍医を務めた。縁家浅井家とみを養女として西山春成を婿養子に迎え、天保7年(1836年)9月千村家侍医を継がせ、西山家の存続が果たされた。12月兼山村の旧宅を町代藤掛文七に売却した。 天保8年(1837年)頃には足腰が弱ったため呉服町の伊藤家宅に滞在している。天保14年(1843年)4月25日夜七つ時頃92歳で病死した。
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隠居後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:49 UTC 版)
寛保3年(1743年)7月、四男・久村(宗村)に家督を譲って隠居し、袖ヶ崎の下屋敷に移った。宝暦元年12月24日(1752年2月8日)死去。享年72。
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隠居後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:32 UTC 版)
寛政2年(1790年)、次男・斉村に家督を譲って隠居し、左兵衛督と称して袖ヶ崎の江戸藩邸下屋敷に居住したが、寛政26年(1796年)に53歳で死去した。
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