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徳川光圀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 13:50 UTC 版)
(水戸光圀 から転送)
| 徳川 光圀 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代前期 |
| 生誕 | 寛永5年6月10日(1628年7月11日) |
| 死没 | 元禄13年12月6日(1701年1月14日) |
| 改名 | 三木長丸、徳川千代松、徳亮、光国、光圀 |
| 別名 | 子龍、観之(字) 日新斎、常山人、率然子、西山、梅里(号) 水戸光圀、水戸黄門 |
| 諡号 | 義公 |
| 神号 | 高譲味道根之命 |
| 墓所 | 瑞龍山、義公廟、常磐神社 |
| 官位 | 従五位上左衛門督、従四位下右近衛権少将 従四位上右近衛権中将、従三位、参議 権中納言、贈従二位権大納言、贈従一位、贈正一位 |
| 藩 | 常陸国水戸藩主 |
| 氏族 | 徳川氏(水戸徳川家) |
| 父母 | 父:徳川頼房、母:久昌院 養父:三木之次、養母:三木武佐 |
| 兄弟 | 松平頼重、亀丸、光圀、頼元、頼隆、頼利、頼雄、頼泰、頼以、房時、鈴木重義 |
| 妻 | 正室:近衛信尋の次女・尋子(泰姫) 側室:玉井氏 |
| 子 | 松平頼常、娘(戸田光規室) 養子:徳川綱方、徳川綱條 |
徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸国水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる[1]。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。
水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った(この権勢を奮えた理由に一部に流れている話として、家康の孫で、「大坂の陣で初陣を経験した、戦国時代の実戦経験を持つ最後の人間だったから」というものがあるが、それは父の徳川頼房の逸話である)。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。
現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われており、光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。
目次 |
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- ^ 「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)である。一般に「水戸黄門」と言えば光圀のことを指すが、水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤であるため、水戸黄門は7人いたということになる。
- ^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。
- ^ 『玄桐筆記』より。寛永17年(1640年)光圀数え13歳の逸話。
- ^ 『桃源遺事』巻之一。
- ^ 小菅桂子 『にっぽんラーメン物語』改訂版、講談社プラスアルファ文庫、1998年
- ^ そのため「皮厚さ一寸の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという伝説があるが、これは伊達政宗の逸話である。小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』(中公新書)ISBN 978-4121010599
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