元禄
元禄(げんろく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 02:57 UTC 版)
野生種に似る。ちなみに野生種そのものは流通上山採り(やまどり)と呼ぶ。
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元禄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:24 UTC 版)
四方の角を切り落とし割れ目にも溝を入れた割り箸。明治30年代に大和下市(奈良県下市町)で考案された。箸の先の断面を見ると、八角形が 2つ並んでいるように見える。
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元禄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:16 UTC 版)
次の画期が元禄にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。この頃には「演劇」といってはばかりのないものになっていた。江戸四座(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝のころである。 元禄年間(1688~1704)を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展をとげ、この時代の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。この時代の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の市川團十郎 (初代)と、「やつし事」(高貴な人が一時的に零落して苦難を経験する場面)を得意として評判を得た京の坂田藤十郎 (初代)がいる。藤十郎の演技は、のちの和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた。芳沢あやめ (初代)も京随一の若女形として評判を博した。 なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない。また荒事の成立過程はよくわかっておらず、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない。 狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。のちに近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、ほかの人形浄瑠璃作品と同様、近松の作品ものちに歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。 作品面では1680年ごろには基本となる7つの役柄がすべて出揃った。すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である。 また作品づくりにおいて江戸幕府の禁令ゆえの制限ができた。正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられたのである。これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。 江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初めごろ(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰される。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。
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