役者として
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高校在学中の1978年、16歳の時に友人に誘われて『博多っ子純情』のエキストラのオーディションを受けたところ、オーディション前日の喧嘩で眉を二針縫い絆創膏を貼っていたことから質問責めになり、喧嘩のまねや酔っ払いのまねをさせられるなどした結果、いきなり主役に抜擢されてデビュー。これがきっかけで俳優になる事を決意し高校卒業と同時に上京する。 上京から少し経った頃、デビュー作で世話になったプロデューサーに会う機会があり俳優になるため上京したことを伝えた。するとその人から、ちょうど撮影中だった映画『男はつらいよ』シリーズのある作品のエキストラとして運良く起用してもらえることになった。さらにその映像を見た業界人から連絡が入り、現在の所属事務所である鈍牛倶楽部を紹介してもらえたとのこと。 俳優になってからしばらくは安定した収入がなく、2時間ドラマの出演で食いつなぐ日々であった。メジャー作品に出演するのは事務所の先輩である緒形拳のバーター出演が多かったため、若手時代は「緒形拳さんに食わせてもらったようなもの」と話す。 転機となったのは30代半ばで、1996年に緒形が出演したピーター・グリーナウェイ監督の映画『ピーター・グリーナウェイの枕草子』に光石も出演する。それ以降は岩井俊二監督や青山真治監督といった新鋭の映画監督の作品に出演するようになる。1998年にテレンス・マリック監督の映画『シン・レッド・ライン』(第49回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作品)のオーディションに合格しハリウッドデビューを果たす。 2011年、『あぜ道のダンディ』でデビュー以来33年ぶりに映画主演を務める。2019年、『デザイナー 渋井直人の休日』で俳優生活40年にして初の連続ドラマ単独主演を務める。 癖のある役からおっとりとした役まで、多様なキャラクターを演じられる名バイプレイヤーの1人とされる。2021年8月時点で140本以上の映画に出演。 2020年、新型コロナウイルス感染拡大の影響により苦境にあった、地元北九州市小倉北区の映画館「小倉昭和館」に寄付、同館は寄付を活用し、ウイルス対策を兼ね、2人1組で座れるテーブル付きソファーの座席を設置し『光石研シート』と命名、お披露目式では光石が「ぜひこのシートに座って映画を楽しんで」とビデオメッセージを寄せた。
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役者として
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2013年10月30日、幸野ソロの『Hello Wedding』で初舞台を踏み、稲康夫という山形弁を話す男を熱演する。
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役者として
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1960年、『サロメ』で主役に抜擢され、以降『熱帯樹』など三島由紀夫演出作品の多くに出演。他にもテアトロン賞を受賞した『陽気な幽霊』をはじめ、数多くの舞台で多くの大役、難役をこなす。しかし1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じ、賛同者の芥川比呂志、高木均、小池朝雄、神山繁、山﨑努らと共に文学座を脱退。 同年、現代演劇協会付属の「劇団雲」の設立を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立にも参加。以後『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実書き下ろしの大半の作品に出演した。近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価が高かった。舞台女優と並行して映画・テレビ出演としても第一線で活躍し、その存在感から時に怪優と称されることもあった。 映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞。1964年に『砂の女』で映画初主演すると作品と共に世界中で絶賛され、ブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派女優としての地位を確立した。上記の『破壊』や『犬神家の一族』など、市川崑作品に多く起用された。また、1982年の増村保造監督の映画『この子の七つのお祝いに』では、岸田演じるヒロインの母親役での怪演が話題となった。 テレビドラマでは、特に1963年の『男嫌い』で、男をむしる独身四姉妹・越路吹雪、淡路恵子、岸田、横山道代(現・横山通乃)の三女役で出演したことが大きい(四姉妹の末弟役は坂本九)。同番組は「カワイ子ちゃん」「かもね」「そのようよ」などの流行語を生み出す大人気ドラマであり、お茶の間での岸田の認知度も上がった。 上記以外にも、1962年の映画『秋刀魚の味』や1974年のドラマ『傷だらけの天使』など数々の話題作に出演すると、「岸田は脇役でこそ、役者としての輝きを放つ」と評されるようになる。
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役者として
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役者を志すきっかけとなったのは、小学校6年生の頃にFolderのメンバーとして映画『モスラ2 海底の大決戦』に出演したことだった。また14歳の時には映画『恋する惑星』を観て、「歌ってるみたいにお芝居していた」フェイ・ウォンに憧れを抱いた。 どんな役も「そう思わないとできない」というタイプであり、事前に役柄や作品について勉強することが多い。「世界中の街中にあふれている色んな人の届かない気持ちをがむしゃらに届けられる役者でありたい」としている。
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役者として
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元々は歌手志望で、作曲家の上原げんとの下で五木ひろしらと席を並べて歌を学んでいたが、五木の歌声を聞いているうちに自信をなくし、父と同じ俳優の道(後にテレビ時代劇『名奉行遠山の金さん』で主題歌を歌唱(吉幾三-作詞作曲『華のうちに』))に入った。17歳で『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』(1960年、東映)で主演デビュー。同学年の北大路欣也とはライバル関係で、松方は東映専属だった北大路とは違い、企画制作担当重役だった岡田茂の個人預かり(フリー)であった。映画『893愚連隊』の主演、「昭和残侠伝シリーズ」の助演、『人形佐七捕物帳』(NHK、1965年)の主演など、主に時代劇やヤクザ映画に出演。中でも佐七は松方の当たり役のひとつになり、1977年に放送された『人形佐七捕物帳』(テレビ朝日、東映)で再び佐七を演じている。 1969年(昭和44年)7月、ライバル北大路に差を付けられ不遇をかこっていた中、大映の看板スターとして勝新太郎と人気を二分した市川雷蔵が37歳で早世。この事態を受け、岡田茂から「大映へ行け。今は勝新しかおらん。大映ならテッペンを取れるで」と大映へレンタル移籍となり、雷蔵の穴埋めを期待され、その当たり役である『眠狂四郎』、『若親分』のリメイク作品などで主役を務めた。大映は松方を移籍させようと画策したが、岡田が「松方は絶対に大映にトレードさせん!」と、これを強く固辞。移籍話は潰れた。1970年(昭和45年)春、ダイニチ映配設立反対を表明したことで大映社長の永田雅一の逆鱗に触れ、半年間、映画作品への出演を認められなかった。 大映の倒産直前の1971年(昭和46年)3月、『日本やくざ伝 総長への道』で東映へ復帰し、1972年の四カ国合作映画『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、1973年(昭和48年)の『仁義なき戦いシリーズ』などで敵役・悪役で芸域の幅を広げた。『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』のソウルロケでは、バスジャックを演じている最中の松方に対して韓国軍は、本当の犯罪者が起こしている事件だと勘違いされ、撮影中のバスに乗り込まれてカービン銃を構えられた。「仁義なき戦いシリーズ五部作」では、三役を演じ分ける怪演を見せた。それまで東映の大量生産の煽りで撮影の連続、演技に厳しい父が一度も褒めてくれず、役者を辞めて遠洋のマグロ漁船に乗ろうなどと考えていたとき、本シリーズに巡り合い、演じることの醍醐味を味わい、役者に開眼したと話している。 1974年(昭和49年)NHK大河ドラマ『勝海舟』で主演の渡哲也が病気降板となり、代役に抜擢される。この作品で勝の愛人、お糸役で共演した仁科明子と懇意になり、翌年のテレビ時代劇『けんか安兵衛』(関西テレビ)では松方の指名で再び共演。これをきっかけに不倫関係となり、マスメディアを賑わせた。同年の映画『脱獄広島殺人囚』は『暴動島根刑務所』『強盗放火殺人囚』と合わせて「世界最強の脱獄アクター」「松方弘樹東映脱獄三部作」と評されている。 ヤクザ映画とポルノ映画を柱とする"東映不良性感度路線"を標榜していた岡田茂は、大河ドラマで全国区の知名度を得た松方を、次世代東映の担い手として東映的な「不良性」で染め上げようと画策。自身のブレーンだったスポーツニッポンの映画記者・脇田巧彦と組み1975年(昭和49年)、『週刊ポスト』で連載「松方弘樹の突撃対談」を始めさせた。内容は松方が毎回女性ゲストに酒を勧めて、対談中にともにボトルを1、2本空けて、セクハラ発言を繰り返すもので、松方が連発する「キツーイ一発」というフレーズは1975年に流行語になり、瞬く間にスポーツ新聞、男性女性週刊誌の見出しを席巻した。この連載から抄録したものが『きつい一発 松方弘樹の言いたい放談』(1975年、八曜社)として出版されている。それまではスターが遊ぶのは藝の肥やしと、結婚、離婚のときしかマスコミは黙認して記事にしなかったが、サラリーマン向け週刊誌やスポーツ新聞の部数が伸びてきた1970年代中盤から艶福家ということを記事にし始めた。松方は艶福家として取り上げられるようになった最初のスターの一人で、自身も積極的に乗った。 ここから1970年代中盤の東映実録ヤクザ路線作品に数多く出演。『県警対組織暴力』や『暴力金脈』『実録外伝 大阪電撃作戦』『沖縄やくざ戦争』や、現在進行中の抗争事件を映画化し、映画の製作が原因でモデルとなった組長が殺害された『北陸代理戦争』 などで強烈な個性を発揮し、『修羅の群れ』では主演を務めた。 1978年(昭和53年)の『柳生一族の陰謀』で時代劇映画に復帰。それ以降は仁侠映画と共に活動の二分となった。 1979年(昭和54年)、前年に最初の妻との離婚が成立したことを受け、関係を続けていた仁科明子と正式に結婚。結婚を機に仁科は女優を引退した。松方はそれまでの「艶福家」というイメージに、「不倫」「妻子を捨て愛人に走った」といったマイナスイメージが加わったことで、一時バッシングを受け、仕事が激減した。この時には父・近衛十四郎が経営していた釣り堀店の姉妹店が滋賀県にできたことから、店番に明け暮れる日々も経験している。同じ頃、先輩俳優で若手の頃から親交のあった里見浩太朗がテレビ時代劇『大江戸捜査網』の出演を降板するにあたり、「松方弘樹を是非使ってやってほしい」と製作陣に掛け合った事を切っ掛けに出演が決まり、第306話「悪を斬る料理人 華麗に参上」から第536話(最終話)「隠密同心 暁に去る」まで、シリーズ3代目主演俳優として4年半にわたり番組を支えると共に、その後の活躍の礎とした。 その後はテレビ作品にも本格復帰し、現代劇作品と並行して、『名奉行 遠山の金さん』シリーズなどの時代劇作品にも積極的に出演した。三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じたほか真田幸村を映画・テレビドラマで計2度演じた。2007年にはテレビ朝日・東映製作の連続テレビ時代劇最終作品として企画された『素浪人 月影兵庫』に主演。10年ぶりとなる時代劇主演作品で、父・近衛の当たり役を親子2代で演じた。
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役者として
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「シドニー・チャップリン (1885年生)」の記事における「役者として」の解説
シドニーとチャーリーが少年期に身を置いたミュージックホールの定番ギャグの一つに「床屋」がある。この「床屋」の役柄を例に挙げて役者としてのシドニーとチャーリーを比較すると、『サニーサイド』のNGフィルムにおける、髭剃りに悪戦苦闘する細かい演技に徹するチャーリーの床屋とは違って、シドニーの床屋は「いかにも見世物的なハイテンションな演技」であるとチャップリン研究家の大野裕之は論じている。一方で、『犬の生活』では「兄弟愛」の延長線上に立つような絶妙な演技を見せている。シドニーが演じる屋台の主人が目を離した隙に、放浪者のチャーリーがパンを盗み食いするシーンがそれで、後年に黒柳徹子と坂本九がこのシーンを模倣しようとしたものの、うまくいかなかった。 1920年代にシドニーと仕事をしたことがあるダリル・F・ザナックは、シドニーを「ハリウッドの歴史上、最も偉大な女装者である。評判の良いエロール・フリンよりも」と称えている。
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役者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 04:49 UTC 版)
子役としてキャリアをスタートさせ、1967年にテレビ放送されていたシットコムドラマ「He & She」の養子役、1968年にテレビシリーズの「宇宙大作戦」(現・スタートレック)などでテレビデビューを果たし、1971年のチャールトン・ヘストン主演のSF映画「地球最後の男オメガマン」の脇役で映画デビューを果たした。その後もいくつかの作品へ出演して活動を広げていくが、70年代中盤にいったんテレビでの活動から舞台での活動に重点を置き、リカルド・モンタルバン等のベテラン俳優らと舞台共演した。70年代後半辺りから再びテレビドラマや映画へ活動の場を戻すと、「ワンダーウーマン」や「ハワイ5-0」などの話題ドラマへ立て続けに出演し、役者としての地位を確立した。演じる役柄では主に日本人や中国人が多く、これまで出演した映画では「ポリスアカデミーシリーズ」に出てくる日本人のノガタ役やティム・ロビンス主演の「ザ・プレイヤー」の本人役などで知られている。また、声優としてテレビアニメへの声の出演作品もいくつかある他、実写版「ミュータント・タートルズ」の3作品においてはレオナルドの声を担当している。
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兄である映画監督のリチャード・エルフマンのカルト作品『フォービデン・ゾーン』では、サタン役で役者として出演している。オインゴ・ボインゴのメンバーも出演しており、エルフマンの鬼気とした演技を見ることが出来る。
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