御用役者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 02:01 UTC 版)
永享5年4月、音阿弥の大夫就任披露の勧進猿楽が、京の糺河原で挙行された。これを祝って人々が義教の元に参上していることから、この催しが義教の手で行われたものであり、音阿弥が将軍家の御用役者として認められていたことが分かる。諸侯は義教の意を迎えるためもあって音阿弥を厚遇し、将軍をもてなす席には音阿弥の能が欠かせぬほどであった。 我が世の春を謳歌する音阿弥であったが、一方で同9年、突如義教の勘気を蒙っている。この事件は貞成親王の耳にまで届き、「不定之世毎事如此」と驚嘆させしめたが、赤松満祐のとりなしで十日ほどで許されている。 嘉吉元年(1441年)、その赤松満祐が、自邸で義教を暗殺するという挙に出る(嘉吉の乱)。それはまさに、饗応のため呼ばれた音阿弥が能「鵜羽」を舞うさなかでの出来事であった。
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