御用紳士とは? わかりやすく解説

御用紳士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 03:16 UTC 版)

辜顕栄」の記事における「御用紳士」の解説

1896年1月辜顕栄台北保良局長任じられ台北秩序維持あたった。保良局自体ほどなくして廃止されるが、1909年台中庁参事1920年台中州協議会員、1921年台湾総督府評議会員に任じられた。また1896年樟脳製造と販売許可日本当局から受け、後には塩田開設アヘンタバコ販売特権台湾総督府から認められて、新興台湾土着資本家として台湾五大資産家名を連ねた1900年以降には開墾事業にも進出し台中のニ鹿港屏東広大な土地を得ることとなる。 1920年代に、台湾島人による台湾議会設置請願運動盛んになると、辜顕栄台湾公益会を設立し植民地自治求めて台湾議会設立運動推進する台湾文化協会対抗したこの際当時台湾総督府警務局長から、公益会の設立引き換えに辜の債務軽減する働きかけをすると持ちかけられた、とも伝わる。 こうした辜顕栄姿勢日本植民地当局与することで財を為し台湾植民地自治運動とは反す立場を取るものであったことから、植民地統治協力者としていわゆる「御用紳士」の代表とも評されている。但し、台湾島人知識人による雑誌台湾青年』(日本統治批判的な雑誌新聞台湾民報』の前身)が発行された際には、辜も資金援助行っている。 日本から1906年勲五等1915年勲四等1923年勲三等叙勲された辜顕栄は、1934年7月遂に貴族院議員勅選された。辜顕栄日本の領台直後から一貫して日本統治貢献したことが理由とされる当時では台湾島人として最初かつ唯一の貴族院勅選議員であった。(更に言えば当時台湾では衆議院議員選挙行われていなかった。)1937年12月東京別邸にて死去死後従五位贈られた。 後藤新平とは親しくしており、新平死後デスマスク1つ譲り受け台北にある臨済護国禅寺献納した

※この「御用紳士」の解説は、「辜顕栄」の解説の一部です。
「御用紳士」を含む「辜顕栄」の記事については、「辜顕栄」の概要を参照ください。

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