かつ‐しんたろう〔‐シンタラウ〕【勝新太郎】
勝新太郎
勝新太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:20 UTC 版)
昭和50年代半ば、俳優の勝新太郎が『座頭市シリーズ』製作時の予算オーバーで事務所の経営が傾き、若山富三郎の紹介で知り合った斎藤が支援者となった。勝の支援に当たり、斎藤は長男を勝プロの専務に送り込んだ。音楽イベントを手がけていた長男は、勝のディナーショーの企画等で活躍していた。数百万円単位の日銭を用立てたこともあった。 1981年(昭和56年)、勝プロダクションが倒産。債権者は、保証手形を振り出していた斎藤のもとに一斉にやって来た。覚悟していた斎藤は「1か月待ってください」とだけ言って、当時所有していた渋谷のホテル、浅草のマンションビル、幡ケ谷の映画館を売り払い、負債を肩代わりした。総額にして約5億円、平成期ならその10倍に達する額であった。 勝は斎藤の世話になった恩義から、毎年正月三日になると、浅草の斉藤の自宅に挨拶に出向くことが習わしとなった。1990年台半ばには「ロック座のママにはほんとうに世話になったから。いまの俺があるのはママのおかげだから」と語っていた。 勝の没年である1997年の正月、勝は「どうしても挨拶したい」と、妻の中村玉緒と共に斎藤のもとを訪れ、踊り子から照明に至るまでスタッフ総勢50人に、その場で自分のサイン付きのお年玉を渡し、斎藤の孫にも1万円のお年玉を渡した。斎藤は後に「最期の挨拶だったのかもしれない」と振り返っている。 勝の死去間際の1997年6月、斎藤は勝からマネージャーを通じての依頼により、彼の最後の入院先の病室に招かれた。下咽頭癌により喉を切開しており声を出せない勝は、筆談で「しゃべれないので失礼します。とにかくしゃべれるようにがんばります。本当に失礼ばっかりしてすいません」と、震える字で最期の挨拶を述べた。そして喉に繋げられていた機械を外し、点滴を引きずりながら室内を歩くと、部屋の一角にあった父・杵屋勝東治の形見の300万円の三味線を、斎藤に手渡した。斎藤はこの三味線と、勝の筆談メモ、病室で撮った記念写真を大事に保管していて、特に写真は、頼まれても他に貸さないようにと長男に念を押した。 勝の没後、斎藤は彼を「本当にいい人」「優しくて細やかな心遣いの人」と評価していたが、一方で経済観念がまったく無いことは認めていた。
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勝新太郎(俳優)
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「小林よしのりの関連人物」の記事における「勝新太郎(俳優)」の解説
父の影響もあってファンであり、『ゴー宣』番外編シリーズ『聖人列伝』にて彼との対談が掲載され、後に『新ゴー宣』単行本にも収録された。
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