水戸徳川家 水戸徳川家の概要

水戸徳川家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 21:55 UTC 版)

徳川氏
(水戸徳川家)
水戸三葵(一例)
本姓 清和源氏
家祖 徳川頼房
種別 武家
華族侯爵公爵
出身地 山城国
主な根拠地 常陸国水戸
東京市渋谷区
著名な人物 徳川光圀(水戸黄門)
徳川斉昭
徳川慶喜
徳川圀順
支流、分家 高松松平家(武家・伯爵
守山松平家(武家・子爵
石岡松平家(武家・子爵)
宍戸松平家(武家・子爵)
長倉松平家(武家)
松戸徳川家(子爵)
凡例 / Category:日本の氏族

歴史

江戸時代

家祖は江戸幕府初代征夷大将軍である徳川家康の末男頼房。水戸藩は東北諸藩の反乱に備えて北関東の拠点として作られた藩であり[3]、表高は当初25万石だったが、1622年元和8年)に28万石、1701年元禄14年)に36万石となった[4]。しかしその領地は常陸と東北地方の境だったので、耕地が少なく生産力も低かった[3]

格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許されていた。官位では尾紀二家(尾張家紀伊家)が大納言極官としたのに対し、水戸家はそれよりも低い中納言を極官とした。参勤交代の対象とはならず江戸の小石川邸に常住する定府大名だった[3]。このことから俗称として「副将軍」という呼び名が起こったと考えられる[3]御連枝高松松平家[5]守山松平家[6]石岡松平家[7]宍戸松平家[8]の四家である。

頼房の三男光圀(義公)は「水戸黄門」として著名である。光圀は『大日本史』の編纂を開始し、天皇朝廷を深く尊び、湊川に後醍醐天皇の忠臣・楠木正成(大楠公)の碑を建てるなど尊皇運動に尽くした[9]。光圀以来、水戸藩内には尊皇を支柱とする水戸学が誕生し、幕末の尊皇攘夷運動に多大な影響を与えた[4]。水戸家は親藩の御三家ではあるが、水戸学を奉じる勤皇家の家として「もし将軍家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる[10]

9代斉昭(烈公)は強烈な尊皇攘夷派として知られ、海防強化や天皇陵修復[9]弘道館を作っての後期水戸学による藩士の教化、領内の廃仏毀釈の徹底による寺院圧迫など尊皇思想に貫かれた政策を実施し、さらに日米修好通商条約無勅許調印反対運動を主導したが、大老井伊直弼と対立して安政の大獄で失脚した[11]。なお斉昭の七男慶喜一橋徳川家に養子に入った後に将軍になった人物である[12]

幕末の尊皇攘夷運動の火付け役となった家だが、斉昭の死後には水戸藩は尊皇攘夷派と佐幕派の藩内抗争が繰り返されて混乱状態に陥り、時勢の指導権を失ったまま明治維新を迎えた[3]

明治以降

聖徳記念絵画館壁画『徳川邸行幸』(木村武山筆、徳川圀順公爵奉納)明治8年4月4日、水戸徳川邸を行幸し、当主徳川昭武(左)や宮内卿徳大寺実則(右)とともに桜を鑑賞する明治天皇[13]

11代昭武明治維新後の1869年明治2年)に版籍奉還知藩事に転じ、1871年(明治4年)の廃藩置県まで務めた。また1869年の華族制度の成立とともに華族に列した[14]

1875年(明治8年)4月4日には東京隅田川沿い小梅村にある水戸徳川邸に明治天皇の行幸があり、明治維新の原動力となった水戸学の発展に尽くした徳川光圀徳川斉昭の遺文や絵画が天覧に供された。昭武とその親族たちも天皇の謁を賜り、その中には斉昭生母補子の姿もあった。天皇は光圀と斉昭の尊皇の功績を称えるとともに、その志を継ぐようにとの勅語を昭武に下した。また水戸徳川邸の桜を天覧した際に天皇は「花ぐはしさくらもあれどこのやどの代代のこころをわれはとひけり」という、満開の桜以上に水戸徳川家の代々の尊皇の志に最も感銘を受けたという御製を詠んでいる[15][16]

昭武の隠居後、その甥の徳川篤敬家督を継ぎ、1884年(明治17年)に華族令が施行されると篤敬は侯爵に列した[14]。御連枝だった松平四家のうち高松松平家伯爵[17]、他の三家はいずれも子爵家に列している[18]。また昭武の子徳川武定も子爵に叙されている(松戸徳川家[19]

篤敬は駐イタリア特命全権公使式部次長貴族院議員などを歴任した[20]

歴代当主に尊皇家が多かった水戸家は明治以降に位階を追贈されることが多かった。とりわけ光圀と斉昭の位階は引き上げられ、1869年(明治2年)には両名とも従一位が追贈され、1900年(明治33年)には光圀に正一位、ついで1903年(明治36年)には斉昭にも正一位が追贈されている。光圀が1657年明暦3年)に始めて以来水戸家が続けてきた全397巻(うち本紀73巻、列伝170巻)からなる『大日本史』は1906年(明治39年)に完成を見た。その内容は尊皇思想に貫かれ、皇統を明らかにして南朝を正統としたことなどを特色とする[21]

1929年昭和4年)に「大日本史の編纂を完成し皇室国家に貢献したる功」が認められて当時の当主徳川圀順侯爵が公爵に陞爵。その功績調書には大日本史編纂に果たした勤王思想、第98代長慶天皇を正統に列したこと、歴代天皇陵を捜索して修復した功績、楠木正成の顕彰などが列挙されており、明治以降はもちろん維新前からの歴代当主の尊皇思想が評価されたものであった[22]。尾張家と紀伊家は侯爵のままだったので御三家で家格が一番高い家になった[2]

1939年(昭和14年)時の水戸徳川公爵家の邸宅は東京市渋谷区猿楽町にあった[9]

圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。1977年(昭和52年)、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館(現・徳川ミュージアム)を開き、その保存・展示に努めている。

歴代当主と後嗣たち

水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代当主と夫人には漢風の諡号が贈られている。

代数 肖像 名前(諡号)
(生没年)
続柄 位階 備考 後嗣
1 徳川頼房(威公)
(1603年-1661年)
徳川家康末男 正三位 初代水戸藩
権中納言
2 徳川光圀(義公)
(1628年-1701年)
先代の子 従三位
1900年正一位追贈
2代水戸藩
権中納言
通称「水戸黄門」
3 徳川綱條(粛公)
(1656年-1718年)
先代の甥
(高松松平頼重の次男)
正三位
1928年従二位追贈
3代水戸藩
権中納言
4 徳川宗堯(成公)
(1705年-1730年)
先代の大甥
(高松松平頼豊の長男)
従三位 4代水戸藩
参議
  • 宗翰(5代)
5 徳川宗翰(良公)
(1728年-1766年)
先代の子 従三位 5代水戸藩
参議
  • 治保(6代)
6 徳川治保(文公)
(1751年-1805年)
先代の子 従三位
1907年正二位追贈
6代水戸藩
権中納言
7 徳川治紀(武公)
(1773年-1816年)
先代の子 従三位 7代水戸藩
参議
  • 斉脩(8代)
  • 斉昭(9代)
8 徳川斉脩(哀公)
(1797年-1829年)
先代の子 従三位 8代水戸藩
権中納言
  • (実子なし)
9 徳川斉昭(烈公)
(1800年-1860年)
先代の弟
(7代治紀の三男)
従三位
1903年正一位追贈
9代水戸藩
権中納言
10 徳川慶篤(順公)
(1832年-1868年)
先代の子 従三位 10代水戸藩
権中納言
  • 篤敬(12代)
11 徳川昭武(節公)
(1853年-1910年)
先代の弟
(9代斉昭の十八男)
従一位 11代水戸藩主→知藩事→廃藩置県
1883年隠居
12 徳川篤敬(定公)
(1855年-1898年)
先代の甥
(10代慶篤の長男)
従二位 侯爵
駐イタリア特命全権大使
式部次長
貴族院議員
  • 圀順(13代)
  • 宗敬(一橋徳川家へ養子、貴族院副議長、参議院議員)
13 徳川圀順(明公)
(1886年-1969年)
先代の子 正四位 侯爵公爵
貴族院議長
日本赤十字社社長
  • 圀斉(14代)
  • 圀禎
  • 圀秀(宍戸松平家へ養子)
  • 圀弘(守山松平家へ養子)
14 徳川圀斉(敬公)
(1912年-1986年)
先代の子
  • 斉正(15代)
  • 斉英(徳川ミュージアム副理事長)
15 徳川斉正
(1958年-存命中)
先代の子

  1. ^ 守山藩主松平頼貞の五男。
  2. ^ 松平直侯、松平武聰の生母。
  3. ^ 宍戸藩主松平頼救の四男。のち宍戸家を継いだ。
  4. ^ 昭武が水戸家を継いだ際に明屋敷(当主不在)となった清水徳川家を継いだ。
  5. ^ 水戸藩主徳川宗翰の六男。
  6. ^ 水戸藩主徳川治紀の四男。
  7. ^ 水戸藩主徳川斉昭の二十二男。
  8. ^ 水戸藩主徳川斉昭の十九男。元は会津松平家会津藩主)を継いだ。
  1. ^ 小田部雄次 2006, p. 58.
  2. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 323.
  3. ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『水戸藩』 - コトバンク
  4. ^ a b 精選版 日本国語大辞典『水戸家』 - コトバンク
  5. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『高松藩』 - コトバンク
  6. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『守山藩』 - コトバンク
  7. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『府中藩』 - コトバンク
  8. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『宍戸藩』 - コトバンク
  9. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 7.
  10. ^ 烈公(斉昭)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて宣えり。おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ。|徳川慶喜|「烈公(斉昭)の御教訓の事」『昔夢会・徳川慶喜公回想談』
  11. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川斉昭』 - コトバンク
  12. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川慶喜』 - コトバンク
  13. ^ 打越孝明 2012, p. 81.
  14. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 31.
  15. ^ 打越孝明 2012, p. 80.
  16. ^ 渡辺幾治郎下巻 1958, p. 401.
  17. ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
  18. ^ 小田部雄次 2006, p. 337.
  19. ^ 小田部雄次 2006, p. 345.
  20. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 8.
  21. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『大日本史』 - コトバンク
  22. ^ 小田部雄次 2006, p. 225.
  23. ^ 平成新修旧華族家系大成下p172


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