平岩親吉
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平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上野国厩橋藩(前橋藩)、尾張国犬山藩主。官位は従五位下・主計頭。徳川十六神将の一人に数えられる。『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。
注釈
- ^ 名古屋叢書三編第十二巻、葎の滴諸家雑談334ページによると、増山河内守に仕え、堀隼人正重といった。もっとも、この本は江戸末期に作者が他者からの伝聞を収録したものであるために、このことは参考程度に留めておかねばならないだろう。
- ^ また『士林泝洄』によれば、親吉には兄2人、弟2人、妹4人があり、兄2人はいずれも徳川家康への仕官を固辞して浪々し、弟2人のうち善十郎(康重)は家康に仕官し、その子吉勝は親吉に付属され、犬山城に勤侍した(知行400石)。次弟の助六(康長)は天正18年、武蔵国岩槻城攻めに親吉に従って参陣したが戦死した。妹4人のうち中2人は婿を取って平岩氏を称し、長女と末女は他家へ婚姻した[3]。
出典
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