大坂の陣
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大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。大阪の陣とも表記する。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれている。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。
注釈
- ^ このことによって、豊臣家が一大名に転落したとする見解と(今谷明『武家と天皇』)、豊臣家が西国を支配する二重公儀体制になったとする見解がある(笠谷和比古)
- ^ 関ヶ原の戦いの直後に九条兼孝が関白に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解(今谷明『武家と天皇』)もある。慶長10年には兼孝の次に摂関家の近衛信尹が関白に任じられている。
- ^ 2人の応対や礼法などを分析し、この会見について秀頼が家康に臣従させられた(今谷明、本多隆成、渡邊大門)、対等な立場での会見であった(笠谷和比古)と両方の見解がある。
- ^ これをもって秀頼の臣従は成っていないとする見解(笠谷和比古)と、秀頼を慮りつつ孤立化を図ったとする解釈がある(渡邊大門)。
- ^ 慶長11年に、家康は朝廷より武家官位推挙権を獲得していた。豊臣家は依然として徳川幕藩体制の外にあり、幕府の制定した法令には縛られないというのが豊臣側の論理である。
- ^ また、家康は林羅山に湯武放伐論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩したといわれているが[4]、この時期の林羅山は家康に対して大きな発言権はないとする近年の研究もある[5]
- ^ 接収米の内訳は福島正則分八万石、徳川家分三万石(ただし、接収を免れたという説もある)、諸大名分三万石、商人からの買米二万石。
- ^ この軍議が実際にこの内容で行われたかどうかどうか、行われたとすればいつかについてははっきりしない。ただ、浪人衆入城が10月6日、同日に家康より伏見へ出陣を命じられた近畿の諸大名が現地に着いたのが16日なので、浪人衆が唱えたとされる策は現実性は乏しい(また、伏見城には平時より城代松平定勝や大番2組等が詰めている)
- ^ ただし、11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じているので、徳川方の兵糧不足は一時的なものと思われる
- ^ この時、家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される禁中並公家諸法度の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる[30]。
- ^ 大名や家康近臣、宣教師の記録には二の丸破壊の記述があり、当代記や複数の覚書には二の丸破壊は記されていない
- ^ 現在の大阪城公園内には天守閣北側の山里丸跡に「自刃の地」と記した碑があるが、落城・焼失後に江戸幕府が再建した際に縄張りを改めており、豊臣時代のものとは位置に若干の相違がある。
出典
- ^ 笠谷 2007, p. 180.
- ^ 毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』)、『義演准后日記』慶長七年十二月晦日条、『鹿苑日録』慶長八年四月二十日条(当時の僧録は西笑承兌)など。
- ^ a b c 渡邊 2012, pp. 33–65
- ^ 笠谷 2007, pp. 204–215
- ^ 渡邊 2012, pp. 68–82
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- ^ 福田 2016.
- ^ 橋本 2002, pp. 551–555.
- ^ 大日本史料 12編16冊575頁
- ^ 大日本史料 12編16冊600頁
- ^ 大日本史料 12編15冊579頁
- ^ 大日本史料 12編16冊737頁
- ^ 大日本史料 12編16冊743頁
- ^ 大日本史料 12編16冊176頁
- ^ 大日本史料 12編16冊787頁
- ^ 大日本史料 12編16冊783頁
- ^ 大日本史料 12編16冊727・783頁
- ^ 大日本史料 12編16冊809頁
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- ^ 大日本史料 12編16冊891頁
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- ^ 大日本史料 12編16冊908頁
- ^ 宇田川武久『真説鉄砲伝来』平凡社、2006年。
- ^ 大日本史料 12編16冊754頁
- ^ 田端 2003.
- ^ 橋本 2002, pp. 541–543.
- ^ 笠谷 2007, pp. 239–241.
- ^ 近藤瓶城編『続史籍集覧 第8冊』「駿河土産 巻5」太閤に大角与左衛門と言者成立之事、2017年11月25日閲覧。
- ^ a b 『徳川実紀 第1編』「東照宮御実紀附録 巻16」、p. 273、2017年11月25日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』2016年9月22日朝刊34面に掲載された記事。
- ^ 大坂夏の陣を記した新史料、松本で発見 落城後も緊迫
- ^ 「古田織部」『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- ^ 渡邊 2018.
- ^ 磯田道史『日本史の内幕』〈中公新書〉2017年、80-85頁。
- ^ 京都市埋蔵文化財研究所 網伸也『方広寺』2010年
- ^ 深光富士男『図説 江戸の旅 名所図会の世界』2021年 p.27
- ^ a b c 『日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名』平凡社 1979年 p.265
- ^ a b 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直『発掘調査で見つかった恭明宮』2016年
- ^ “徳川宗家19代目・徳川家広「『元和偃武』の本当の意味とは?」”. AERA. 朝日新聞出版 (2016年6月12日). 2017年12月29日閲覧。
- ^ 和歌森太郎 編「第1話 日本史観」『日本の歴史』 上、有斐閣、1957年、11頁。
- ^ 小林計一郎 著「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年、156頁。
- ^ 『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)
- ^ 「真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見」読売新聞、2013年2月25日付
- ^ 丸島和洋『真田四代と信繁』〈平凡社新書〉2015年、251-252頁。
- ^ 小林計一郎 著「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年、164頁。
- ^ 日本経済新聞堺支局長 原明彦 (2012年9月1日). “大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説”. 日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西. 日本経済新聞. 2016年1月14日閲覧。
- ^ “駐日オランダ人が「大坂の陣」を記録 「寝返った大名が秀頼に落とされた」 日文研、オランダの大学と共同調査”. 産経新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ “大坂の陣 オランダに記録 東インド会社駐在員の書簡”. 日本経済新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ “大坂の陣:迫真ルポ 秀頼が裏切り者を城壁から突き落とす”. 毎日新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ “「秀頼に落とされ死んだ」大坂の陣、オランダで新文書”. 朝日新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ a b c 「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級毎日新聞、2018年4月4日
大坂の役
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慶長19年(1614年)、大坂の陣が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6,000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。 翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山(現:玉手山公園近隣)に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁(幸村)らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死したとされている。享年56。
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大坂の役
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慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では主要な武将の1人として籠城戦の総指揮を執り、船場方面(西側)の守備を統括した。 膠着状態の中、12月、塙直之(団右衛門)や米田監物らと共に本町橋から蜂須賀隊への夜襲を敢行して勝利した。 しかし包囲の長期化により和議派が台頭すると、治房は主戦派の筆頭として、兄らとも対立する。結局、治長と織田有楽の主導で徳川方との和睦が成立した。和睦後、治長が城内で襲われて負傷したが、これは治房が襲撃させたとも言われる。 慶長20年(1615年)4月に徳川家との和睦が破綻し、大坂夏の陣が始まると、4月27日、治房は大和郡山城を攻略するため2千余の兵の指揮を執り暗峠を越えて、ほとんど空城となっていた郡山城を攻撃して筒井定慶を逐い、城下を焼き払った。28日、治房は槙島玄蕃等と、住吉・堺に火を放ち、徳川方の水軍・向井忠勝・九鬼守隆らと交戦した。29日、更に治房は紀伊の浅野長晟を攻撃するため和歌山城を目指した。同時に紀伊および和泉で一揆を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応させる計画であった。治房は一揆勢の蜂起と呼応して攻めようと考えていたが、塙直之ら豊臣軍の先鋒と浅野勢との間で戦闘が開始されたため、戦場である樫井へ急いだ。しかし到着する前に塙直之らの部隊は壊滅し、浅野勢も退却していたため、大坂に引き返した。 詳細は「郡山城 (大和国)#郡山城の戦い」および「樫井の戦い」を参照 5月7日、最後の決戦のため豊臣方は大坂城を出発し、治房は左翼岡山口の主将として計4,600の軍勢で布陣した。戦闘が始まると、治房隊は徳川勢先鋒の前田隊を攻撃、これを支援するために井伊隊・藤堂隊が動くと、混乱に乗じて前進配置した徳川秀忠旗本の一部に殺到して大混乱に陥れた。しかし次第に秀忠軍が反撃に転じ始め戦況が不利になると、治房は敗兵を収容しつつ城内に撤退した。その後、城が炎上すると玉造口から逃亡した。
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