松平康元とは? わかりやすく解説

松平康元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 08:57 UTC 版)

 
松平 康元
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文21年(1552年[1]
死没 慶長8年8月14日1603年9月19日
改名 久松勝元(初名)、松平康元
別名 三郎太郎(通称)
戒名 大興院殿傑伝宗英大居士[2]
墓所 千葉県野田市関宿台町の宗英寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康
下総関宿藩
氏族 久松氏久松松平家
父母 久松俊勝於大の方
兄弟 久松信俊、一色詮勝室、康元康俊多劫姫定勝、松姫、天桂院、女子
異父兄:徳川家康
忠良、政良、康久、宣助、洞仙院、流光院、満天姫、久松院、大須賀忠政正室、浄明院
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生誕地の坂部城

松平 康元(まつだいら やすもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名徳川家康の異父弟。

略歴

久松俊勝次男として尾張国阿古居城(現在の愛知県知多郡阿久比町)にて誕生。

永禄3年(1560年)3月、異父兄・家康と会見して康元と改名し、それに伴い松平姓を(かし)されたという(『寛政譜』他)。永禄5年(1562年上ノ郷城主となる。天正18年(1590年)落城後の小田原城の守備にあたり、同年下総国関宿藩2万石の所領を与えられ、天正19年(1591年)には4万石に加増された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の代理として江戸城の留守居役を務めている。

慶長8年(1603年)に死去した。享年52。嫡男の忠良家督を継いだ。

系譜

康元のの多くは異父兄の徳川家康の養女となり、有力大名家へ政略結婚で嫁ぎ、徳川家の権力基盤の安定の基となった。男子らは親族として適当であったのであろう、各々が従兄弟にあたる徳川御三家や駿河大納言徳川忠長に配属された。康元の家は子や孫の代で大きく所領を減らし大名ですらなくなるが、もし穏当に存続できていれば、弟の定勝の系統のように幕府内でももっと重く用いられた家系であったはずであろうと推測される。

家臣

脚注

  1. ^ 生年および享年は『寛政譜』の記述に拠る。これは『寛永諸家系図伝』、『藩翰譜』において記された所伝と一致する。『御九族記』(国立公文書館所蔵)では享年53、生年を天文20年(1551年)としているが(汲古書院刊行本『朝野旧聞裒藁』12巻410頁)、これはの勝俊の生年に配慮したものと考えられる。
  2. ^ 『寛政譜』に拠る。新訂1巻279頁




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