ようし‐えんぐみ〔ヤウシ‐〕【養子縁組(み)】
養子縁組
養子縁組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 15:22 UTC 版)
養子縁組の場合、養子は養親の氏を称する(民法810条本文)。ただし、婚姻によって氏を改めた者については、婚姻の際に定めた氏を称すべき間は婚氏を優先する(婚氏優先の原則、民法810条但書)。 養子は離縁によって原則として縁組前の氏に復する(民法816条第1項本文。復氏の原則)。例外として配偶者とともに養子をした養親の一方のみと離縁をした場合は復氏しない(民法816条第1項但書))。ただし、縁組の日から7年を経過した後に縁組前の氏に復した者は、離縁の日から3か月以内に戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、離縁の際に称していた氏を称することができる(民法816条第2項。縁氏続称)。
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養子縁組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 22:19 UTC 版)
「バングラデシュの家族法」の記事における「養子縁組」の解説
インドが養子縁組に関して人的に統一された(当事者の性別、宗教を問わない)制定法を有する(2015年少年司法(児童の監護及び保護)法)を有するのに対して、バングラデシュにはこのような制定法が存在しない。バングラデシュは国際的な養子縁組に関する児童の保護及び協力に関する条約にも未加盟である。 シャリーアは養子縁組に関する規範を持たない。カファーラとよばれる一種の里親制度がクルアーン及びハディースによって奨励されているが、実方との親族関係が維持されること、里子の姓が変わらないこと、里子に相続権がないことなどの点で、カファーラは養子縁組とは異なる。バングラデシュの一部地域で事実上の養子縁組が行われているが、非公式のものである。 ヒンドゥー教は、家系を維持するための養子縁組を許容している。養子は身体及び精神に障害のない男児に限る。上告部の判例 (Abdul Mannan alias Kazi v. Sultan Kazi, 34 DLR (AD) 1982 236) によると、孤児は別の慣習がない限り養子になることができない。養子は実親から養親に現実に引き渡されることを要する。養親は養子と同じカーストに属し、健全な精神を持つ男性に限る。養親は、分別のある年齢(15歳)に達していれば未成年者でもよく、独身でも寡夫でもよく、妻がいてもその同意を得る必要はないが、養親に男性の子や孫などがいるときは養子を取ることができない。養父は、婚姻が禁じられた近親女性の子を養子に取ることができない。上告部の判例(Anath Bandhu Guha v. Sudhangsu Sekhar Dey, 31 DLR (AD) 1979 312)によると、養子は法律上あらゆる点で実子と同視される。未婚女性は養親になることができず、既婚女性は夫の明示の同意を得たときに、未亡人は夫の生前に同意を得ていたときに、養親となることができる。養子縁組が成立すると、養子と実方との親族関係は終了し、離縁することはできない。 バングラデシュ政府は、キリスト教徒及び仏教徒は養子縁組を許容され奨励されていると述べる。しかし、養子縁組を規律する制定法がないため、養子縁組が社会的養護の機能を発揮していないだけでなく、恥や汚名と捉える風潮も見られるようである。
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養子縁組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 16:36 UTC 版)
武芸で藩内に注目される一方で、自身は男児に恵まれず、ついに養子をとることを決意する。こうして安政2年(1855年)には、佐川郷において、やはり剣術で立身し藩内指折りの剣客であった浜田重民を娘婿に縁組させる。浜田姓から那須姓に改めた重民は、以後那須信吾を称した。元来、腕がたつ信吾は、俊平の道場で代って師範を務めるようになり、多くの若者たちに慕われたという。とくに、若き日の坂本龍馬とは深い親交があった。後年、武市瑞山が土佐勤王党を結成した折も、信吾はこれに龍馬とともに加わっている。
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