徳川忠長とは? わかりやすく解説

とくがわ‐ただなが〔トクがは‐〕【徳川忠長】

読み方:とくがわただなが

[1606〜1634]江戸初期大名徳川2代将軍秀忠三男3代将軍家光の弟。通称駿河大納言。兄家光にうとまれ、秀忠死後自刃


徳川忠長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/10 03:27 UTC 版)

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康にあたる。


注釈

  1. ^ このとき、佐久郡の北半分3万5000石と小県郡の旧領は、松平忠憲に与えられた[2]

出典

  1. ^ 福田千鶴『江の生涯』〈中公新書〉2010年、174-176頁。 
  2. ^ a b c 南佐久郡誌編纂委員会 2002, p. 32.
  3. ^ 南佐久郡誌編纂委員会 2002, p. 34.
  4. ^ 小池進「流行病と忠長凶行の原因」(『本郷』155号、2021年)
  5. ^ 『静岡県史 通史編3 近世一』
  6. ^ 塩川 2007, p. 120.
  7. ^ a b c d 徳川忠長の墓 附 忠長の霊牌その他”. 高崎市. 2023年3月10日閲覧。
  8. ^ 郷土雑誌『上州路』1989年9月号


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徳川忠長(とくがわ ただなが)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 13:59 UTC 版)

忍びの卍」の記事における「徳川忠長(とくがわ ただなが)」の解説

家光の弟。駿河および甲州治め聡明な快男児。かつて幼少時家光将軍位争い敗れた過去を持つ。家光体制成立後意に反して危険人物と見なされ、大炊頭謀略により次第窮地追いこまれてゆく。なお、切腹に至るまでの蟄居等の顛末は、歴史的事実おりまぜ史実即して描かれている。

※この「徳川忠長(とくがわ ただなが)」の解説は、「忍びの卍」の解説の一部です。
「徳川忠長(とくがわ ただなが)」を含む「忍びの卍」の記事については、「忍びの卍」の概要を参照ください。

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