将軍就任とは? わかりやすく解説

将軍就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:06 UTC 版)

源実朝」の記事における「将軍就任」の解説

建仁3年1203年9月比企能員の変により頼家将軍職失い伊豆国追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日頼家死去したという虚偽報告行い千幡への家督継承許可求めた。これを受けた朝廷7日千幡従五位下征夷大将軍補任した。10月8日北条時政邸において12歳元服し後鳥羽院命名により、実朝称した儀式参じた御家人大江広元小山朝政安達景盛和田義盛ら百余名で、理髪祖父北条時政加冠門葉筆頭平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐任じられる翌年、兄の頼家北条氏刺客により暗殺された。 元久元年1204年12月、京より後鳥羽寵臣坊門信清の娘であり、後鳥羽いとこに当たる信子正室迎える。「吾妻鏡によれば正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝許容せず使者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ幼く、この決定実際時政政子妥協産物とする説もある。元久2年1205年1月5日正五位下叙され29日には加賀介兼ね右近衛権中将任じられる系譜源義朝 北条時政 牧の方 源頼朝 北条政子 北条義時 坊門信清 源頼家 源実朝 坊門信子 公暁

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将軍就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:16 UTC 版)

徳川家綱」の記事における「将軍就任」の解説

寛永18年1641年8月3日第3代将軍・徳川家光長男として江戸城本丸生まれる。乳母矢島局三沢局。 父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎ決めていたという。その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望男児だったためともいわれている。 正保元年1644年12月、名を家綱改め正保2年1645年4月元服する慶安3年1650年9月西の丸へ移る。 慶安4年1651年4月20日家光48歳薨去すると、家綱8月18日10月2日)、江戸城において将軍宣下受けて4代征夷大将軍就任し内大臣任じられた。幼年将軍職就いたことにより、将軍世襲制磐石なものであることを全国示した12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後最後慶喜を除く)の将軍宣下京都ではなく江戸で行われることとなる。

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将軍就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:09 UTC 版)

足利義晴」の記事における「将軍就任」の解説

同年3月7日高国対立した義稙京都出奔し同月22日行われた後柏原天皇即位式出仕しなかったため、高国警固職務行った。これにより、義稙天皇信任失い、その放逐決意した高国は新将軍擁立決めた当時、義維は高国敵対する細川澄元のもとで育てられていたため、政情不安により播磨各地を義とともに転々とする亀王丸が、新将軍として京へ招かれることとなった4月19日高国若狭守護武田元光上洛促すとともに、義対立する浦上村宗にも呼び掛けた宗は義忠節誓って和睦し、亀王丸を義のもとから引き離した。亀王丸失った宗に謀殺されたのは、その5ヶ月後のことであった7月6日、亀王丸播磨から3万人の供勢を引き連れて上洛し、高国歓待受けたその後、仮の御所として上京の岩院に入った公家鷲尾隆康自身日記に「不慮の御運で、誠に奇特だ」と、新将軍の座に転がり込んだ王丸を珍しがっている(『二水記』)。 7月26日、亀王丸学習開始儀式「読始」を行い28日には朝廷から高国東坊城和長によって考えられ義晴の名を与えられ従五位下叙された。 8月9日元服前の儀式である涅歯鉄漿で歯を黒く染め儀式)を行い8月29日には内裏代始参賀行ったまた、高国判断受け入れた朝廷からは、11月25日正五位下左馬頭に任ぜられた。 12月24日義晴新たに御所定められ三条御所移り元服行った元服足利義政故実則って行われ高国加冠役務めた。 翌25日朝廷から征夷大将軍補任され、第12代将軍となったまた、同日政務をとり始めるための儀式沙汰始」、「評定始」、「判始」が執り行われた。 とはいえ11歳義晴には実際政務を行うには未熟で、細川高国政所執事頭人)の伊勢貞忠飯川国信大舘尚氏(常興)に代表される義澄を支持していた幕臣中には義晴と共に播磨下っていた者もいた)、播磨国所領を持つ奉公衆三淵晴員の姉で大舘氏養女ともされる子局(後の清光院)(義晴養育係)らが政務運営あたった

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