三省堂 大辞林 |
あしかが-よしはる 【足利義晴】
(1511-1550) 室町幕府一二代将軍(在職 1521-1546)。義澄の子。細川高国に擁立されて将軍となった。実権なく、三好長慶・細川晴元らの政争に翻弄(ほんろう)され、将軍職を子の義輝に譲った。
戦国武将覚書 |
足利義晴(あしかが よしはる) 1511~1550
○亀王丸 左馬頭 右大将 大納言 征夷大将軍
◇父:足利義澄 室:近衛尚通女 子:足利義輝、義昭、西山義辰
将軍家足利氏一族。父義澄の逃亡先近江・九里備前守の館にて出生し、さらに播磨に逃れて赤松義村の下で養育される。管領細川高国が将軍義稙を阿波へ逐うと、高国に迎えられて上洛し、第12代将軍の座に就く。しかし、弟義維を擁する細川晴元・三好元長らと対立し、1528年三好元長に逐われて近江・朽木稙綱を頼る。元長が本願寺教光らに攻められ自刃すると、晴元に擁されて帰洛したが、この晴元と対立して再び近江坂本に下り、将軍職を辞す。近江・穴太で没。再三近江に逃れ、むしろ在京期間の方が少なかったことから、“江州大樹”と呼ばれた。
◇父:足利義澄 室:近衛尚通女 子:足利義輝、義昭、西山義辰
将軍家足利氏一族。父義澄の逃亡先近江・九里備前守の館にて出生し、さらに播磨に逃れて赤松義村の下で養育される。管領細川高国が将軍義稙を阿波へ逐うと、高国に迎えられて上洛し、第12代将軍の座に就く。しかし、弟義維を擁する細川晴元・三好元長らと対立し、1528年三好元長に逐われて近江・朽木稙綱を頼る。元長が本願寺教光らに攻められ自刃すると、晴元に擁されて帰洛したが、この晴元と対立して再び近江坂本に下り、将軍職を辞す。近江・穴太で没。再三近江に逃れ、むしろ在京期間の方が少なかったことから、“江州大樹”と呼ばれた。
ウィキペディア |
足利義晴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/26 18:27 UTC 版)
足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪。
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- ^ 『系図纂要』に記載あり。
- ^ 水野智之『室町時代公武関係の研究』(吉川弘文館、2005年) ISBN 978-4-642-02847-9 P246-249
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉87頁 - 89頁。
- ^ (『光源院殿御元服記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)『三好長慶』〈人物叢書〉89頁。
- ^ (『続応仁後記』)『三好長慶』〈人物叢書〉90頁。
- ^ (『細川両家記』)『三好長慶』〈人物叢書〉91頁。
- ^ (『御湯殿上日記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)『三好長慶』〈人物叢書〉92頁。
- ^ 近江が定頼の領国のため、表面上は晴元・定頼らを赦免という名目の下で京都に戻った(『足利季世記』『続応仁後記』『厳助大僧正記』)『三好長慶』〈人物叢書〉92頁。
- ^ (『言継卿記』『厳助大僧正記』『長享年後畿内兵乱記』)『三好長慶』〈人物叢書〉109頁 - 111頁。
- ^ (『公卿補任』『万松院殿穴太記』『御湯殿上日記』)『三好長慶』〈人物叢書〉111頁。
- ^ 参考:『歴史読本スペシャル 特別増刊「臨終の日本史その死の瞬間」』(新人物往来社 昭和62年(1987年))
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