成田泰親
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:21 UTC 版)
成田 泰親[注 1](なりた やすちか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。下野烏山藩主。官途名は左衛門尉[3]。妻は上杉憲盛の娘[3]。
注釈
- ^ 泰親の名は『成田系図』に記されているもので、晩年は泰喬(やすたか)を名乗ったといわれている[1]。ただし、泰親の発給した現存する書状では「左衛門尉 泰」とのみ記されており、泰喬名義のものは高野山浄心院への書状(年次不明)が一通残されているのみである[1]。このほか「氏範」「長忠」など様々な諱がある[2]。
- ^ 成田氏は烏山入城後、飛地領として下野国南部の上三川領1万石を加増されたが、その明確な時期は定かでない[12]。一説によれば関ヶ原の戦いの論功行賞の結果として与えられたものとも言われるが、慶長2年(1597年)に上三川城主・今泉高光が芳賀高武の攻撃を受け自害した事件から、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が没した間の時期とも推定される[12]。
出典
- ^ a b 行田市史編さん委員会 2012、513頁
- ^ a b c d e 黒田 2012、226頁
- ^ a b c d e f 行田市史編さん委員会 2012、528-529頁
- ^ a b 黒田 2012、199頁
- ^ a b c 社会教育課郷土史料係 編 『騎西町史 通史編』騎西町教育委員会、2005年、231-233頁。
- ^ 黒田 2012、37頁
- ^ 黒田 2012、43頁
- ^ 行田市史編さん委員会 2012、501-503頁
- ^ 黒田 2012、44頁
- ^ 行田市史編さん委員会 2012、507頁
- ^ 黒田 2012、227頁
- ^ a b 上三川町史編さん委員会 編 『上三川町史 通史編 上巻』上三川町、1981年、427-428頁。
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