江戸藩邸
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江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代に江戸に置かれた藩邸(藩の屋敷)である。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である[1]。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。
- ^ 歴史学では、江戸時代の統治構造を指して幕藩体制と呼ぶことがある。しかし、明治初年に府藩県三治制が定められるまで、「藩」という用語・概念が広く用いられることはなかった。江戸時代を通じて、「藩」ではなく「家」(イエ)を中心とした制度が運用された。
- ^ 慶長10年(1605年)に結城秀康(越前藩)が拝領した麹町屋敷(上屋敷)は子・松平忠直(改易)から孫・松平光長(高田藩新規立藩)に伝わった。また、元和5年(1619年)に松平忠昌(高田藩)が拝領した龍ノ口屋敷(上屋敷)は忠昌の福井藩相続後も変更されることはなく、次代藩主の松平光通に伝わり、明暦3年(1657年)の明暦の大火で消失した。ただし忠昌が「利便性」を選んだとも、兄の子を憐れんだためとも伝わる。
- ^ 例えば、50万石の格式を持った家が減封処分となり5万石となった場合、以降の格式・財政ではこれまでの大屋敷を維持できず「身分不相応」とされ屋敷を替えられることがあった。
- ^ 富山県公文書館『とやまの歴史 将軍綱吉。加賀藩本郷上屋敷御成り』富山県、1998年、p93頁。
- ^ a b 金行信輔「描かれた大名屋敷」、「加賀殿再訪―東京大学本郷キャンパスの遺跡」(東京大学コレクション)。文化庁編『戦災等による焼失文化財[増訂版]建造物篇』便利堂、1983年(文化庁編『戦災等による焼失文化財』戎光祥出版 2003年)
江戸屋敷
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元禄11年(1698年)、甲州街道に面した藩の中屋敷の一部が収公され、内藤新宿(現在の新宿区内藤町)として発展した。上屋敷は神田元鷹匠町(現在の千代田区神田小川町)、下屋敷は下渋谷村(現在の渋谷区恵比寿)に存在した。
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江戸屋敷
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上屋敷、芝三田綱町にあり、現在、綱町三井倶楽部となっている。1878年に当時の三井組(三井銀行)に売却した。 島津本家の芝屋敷は芝・三田の増上寺南側に広大な屋敷(2万1785坪余)があり、その西側に佐土原屋敷は位置する。 抱屋敷は南品川宿にあった。
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江戸屋敷
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上屋敷:東京都千代田区丸の内2-7-1 現在は「三菱UFJ銀行本店」がある。 中屋敷:東京都中央区日本橋浜町1丁目 下屋敷:深川(東京都江東区)・元文3年(1738年)拝領
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江戸屋敷
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江戸屋敷
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西高木家は明暦の大火により江戸屋敷を焼失した。その後、跡地は火除け地とされ、代地を与えられなかったために東高木家へ同居することとなった。諸大名の江戸屋敷と違い、美濃衆の江戸屋敷には留守居を含む2、3人の家臣が常駐しているだけであり、同居が可能であった。同居状態は文政8年(1825年)に東高木家の屋敷が火災に遭うまで続けられた。 明治維新後、明治元年12月上旬に高木家は中大夫に区分されて東京定府を命じられたが、翌明治2年2月中旬には京都にて提出した定府免除願いが認められ、結局高木家当主が東京に居住することは一度もなかった。
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江戸屋敷
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御三家の附家老5家は、江戸初期の慶長の頃より主家とは別に江戸屋敷を拝領していた。それぞれの主家屋敷の周りに屋敷を構えており、基本は国詰め政務の紀州安藤家以外の附家老屋敷は、時代とともに敷地を拡大していった。
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江戸屋敷
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上屋敷 北八丁堀 9,301坪(内河岸685坪) 寛永13年(1636年)松平定綱が屋敷を拝領したのが始まりと言われる。江戸時代を通じて上屋敷として使われた。元禄7年(1694年)1月23日に門前の堀に架かる橋を越中橋と言ったが、戊辰戦争で松平定敬が負けたので、以後は久安橋と改名された。今は堀底が道路となっていて久安橋は健在である。 中屋敷 元矢之倉 1,760坪余(松平丹波守へ貸す) 寛政5年(1793年)12月28日に巣鴨にあった中屋敷に替えて、拝領した。寛政5年7月23日に松平定信(白河藩主)が老中を退任しているので、それに関係があるかも知れない。文化5年(1808年)4月13日に元矢之倉屋敷は市ヶ谷2,700坪余と交換している。しかし弘化3年(1846年)閏5月18日に市ヶ谷屋敷と交換し、元矢之倉1,760坪余を入手している。 中屋敷 深川富岡八幡宮前610坪 何時ごろから拝領しているのか不詳である。この屋敷は江戸湾に面しているので、船が発着する蔵屋敷であったと思われる。 下屋敷 向築地 15,676坪4合余(内346坪余稲葉長門守へ貸す)下谷竹門にあった屋敷と交換する形で松平定信が幕府の老中首座在任中の寛政4年閏2月12日に拝領したもので、定信の功績により与えられた屋敷である。ここは一橋家の屋敷地の一部であった。ここに定信は庭園を造り、浴恩園と名づけた。 下屋敷 白金村503坪(伊達若狭守へ貸す) 天保14年(1843年)8月7日に、蛎殻町の下屋敷3,937坪と交換して拝領したものであるが、面積が大きく違っているし、且つ中心部から離れた場所との交換。 桑名藩独自で抱えている屋敷は、小石川大塚で11,765坪、上大崎村・下大崎村入会4,796坪などがあった。
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江戸屋敷
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鍛冶橋吉良邸(上屋敷) - 元禄11年(1698年)9月6日まで。現在はパシフィックセンチュリープレイス丸の内。千代田区丸の内1-11-1。 呉服橋吉良邸(同) - 元禄14年(1701年)8月19日まで。敷地は約2700坪あり、上杉綱憲(義周の実父)が建築費2万5000両余を提供している。現在は大丸グラントウキョウノースタワーが建つ。千代田区丸の内1-9-1。 本所吉良邸(同) - 元禄赤穂事件当夜に、義周が在邸し重傷。墨田区両国3-13-9。 麻布谷町吉良家中屋敷 - 現在の六本木1丁目。 麻布一本松吉良家下屋敷 - 現在の元麻布大黒坂・一本松坂。敷地は約1600坪。向かい側に増上寺隠居所(萬治二年までは麻布氷川神社)があった。現在の屋敷跡にはオーストリア大使館・大法寺など。一本松坂を進むと御神木「一本松」が現存。のち有馬・東条ら旗本屋敷になる。港区元麻布1-1-10~20。 砂町銀座小名木川吉良家抱屋敷(蔵屋敷) - 父・義央に因む「上野(こうづけ)堀通り」の地名が残る。現在の北砂三丁目(西大島駅から10分)。
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