教養人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 15:41 UTC 版)
当時安元は武家第一の歌人ともされ、八雲軒と号し、徳川秀忠の談伴衆でもあった教養人で、和漢書籍数千巻を蔵していた。「下館日記」「在昔抄」など著作も多い。林羅山には儒学を学び、逆に安元が羅山に歌道を教えるという師弟関係でもあった。また、狩野派の絵師狩野元俊とも親しく、安元が下館城在番中に江戸から元俊が訪ねてくるなど親密な仲だった。この下館城在番中に土佐派の絵師土佐一得に関する貴重な記録が残っている。この一得は容貌や所作が少々特殊であったがしかし安元は、絵は心で描き、一芸に秀でることは素晴らしいことだとして、一得を称賛している。一得は半月ほどの間に安元の求めに応じて絵を描き、安元は多額の謝礼を渡している。 安元の教養を知らしめる逸話として、以下の話が有名である。家光の治世「寛永諸家系図伝」が編纂されるにあたり、戦国時代に成り上がった大名諸家が源平藤橘などと名門の出であると取り繕った系図を競うように作る中で、安元は「祖先は藤原氏であるらしい」ということだけしかわからなかったため、祖父脇坂安明からの短い系図のみを作り、冒頭に「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」(北家・南家ひいては京家、式家いずれかは判りませんが、父祖よりたまたま藤原氏の末裔を名乗っております=脇坂家は大した出自ではありません)という和歌をしたためて提出したと伝わる。
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