幕藩体制下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 13:41 UTC 版)
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり上田藩主となったが、上田城は破却を命じられた(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った仙石氏が行う)。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている(なお、慶長13年(1608年)から17年(1612年)までは再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する「幸」を捨てたとは言えないとしている)。義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。 信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、九度山にいる父や弟への援助を続けていた。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。元和8年(1622年)10月、信濃松代に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。 明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。 同年10月17日に死去。享年93。辞世は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」。 墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺長国寺には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に幸貫が老中となっている。明治維新後に子爵(後に伯爵)家となった。
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