ほんだ‐ただかつ【本多忠勝】
本多忠勝
本多忠勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 00:07 UTC 版)
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。
注釈
- ^ 『名将言行録』では「(忠勝は)黒糸の鎧に鹿角打たる冑を着、蜻蛉切りという鑓を、馬手の脇に抱込みて二反(約22メートル)計に押寄せたり。敵味方の真中に馬を静に歩行ませ入れ、味方に下知して引退き、見附の人家に火を掛て、浜松にこそ帰りけれ」とある。
- ^ 天正18年8月7日付で本多忠勝から滝川忠征に出された書状(名古屋大学文学部所蔵「滝川文書」本多忠勝書状)に、自分が万喜城を与えられたのは忠征の口添えのおかげとする趣旨の内容が書かれている。このことから、最初に忠勝に与えられたのは万喜城であったことが判明するとともに、その決定には忠征の主君である秀吉と家康の間の合意があったことがうかがえる(柴論文参照)。
- ^ 『藩翰譜』では「終に一所の手も負わず」とある
出典
- ^ a b c d e 『大多喜町史』(1991年) 479頁
- ^ 『寛政重修諸家譜』
- ^ 郡, p. 13
- ^ a b c 『徳川実紀』
- ^ 三河物語. 岩波書店
- ^ 祝田家文書. 静岡県史料
- ^ a b c d 尾崎晃「本多忠勝」(『千葉史学』54号、2009年)
- ^ a b c 郡, p. 15
- ^ a b 『藩翰譜』
- ^ a b c d 『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』(英和出版社、2014年)
- ^ a b c 家康忠勝両公三百年祭事務所編 『家康忠勝両公三百年祭紀要』家康忠勝両公三百年祭事務所、1915年。
- ^ a b c 郡, p. 16
- ^ 「大久保家秘記」『寛政重修諸家譜』。村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
- ^ a b 中嶋次太郎『徳川家臣団の研究』吉川弘文館、1966年。
- ^ 川村優「徳川家康の新領国に対する家臣団配置―小田原落城直後の上総の一動向―」(『歴史手帳』6巻2号)
- ^ 『大多喜町史』(1991年)310頁-311頁
- ^ 川田貞夫「徳川家康の関東移封に関する諸問題」(『書陵部紀要』14号、1962年)
- ^ 『大多喜町史』(1991年)306頁
- ^ 柴裕之「豊臣政権の関東仕置と徳川領国―本多忠勝の上総万喜入城を通じて―」(佐藤博信編『中世房総と東国社会』岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-739-7
- ^ a b 水野 2020.
- ^ a b 『千葉県の歴史 通史編 近世1』(2007年) 126頁
- ^ 『大多喜町史』(1991年) 482-483頁
- ^ 郡, p. 18.
- ^ a b 『大多喜町史』(1991年) 483頁
- ^ 『名将言行録』
- ^ a b 黒糸威胴丸具足〈鹿角脇立兜・小具足付/(本多忠勝所用)〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁)、2018年10月8日閲覧。
- ^ 杉本崇 (2015年1月9日). “天下の名槍「蜻蛉切」、11年ぶり公開 本多忠勝が愛用”. 朝日新聞 2015年5月11日閲覧。
- ^ 路蕪村悟道「蜻蛉切の作者はだれ」『刀剣と歴史』664-667号、日本刀剣保存会阪神支部、2005年。
- ^ 朝日新聞社編 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
- ^ 村上直「徳川四天王」『江戸幕府:その実力者たち』上巻、北島正元編、新人物往来社、1964年。
- ^ a b 『三河後風土記正説大全』巻42「池田之助討死 付 本田忠勝勇猛 并 石川数正不義の事」。同書巻43「本田平八郎忠勝勇猛 付 神君御陣替 并 秀吉神君を罷感事」。
- ^ 『戦国武将 群雄ビジュアル百科』(ポプラ社、監修:二木謙一)
- ^ 「楽天社長・三木谷浩史、経営者としての原点は戦国武将!?『ファミリーヒストリー』」 テレビドガッチ2018.12.15 up
- ^ 「NHKドキュメンタリー - ファミリーヒストリー「三木谷浩史~経営者の原点」日本放送協会
- ^ 「楽天・三木谷会長の幼少期はやんちゃ坊主…母が明かす「怒られてもケロっとしていました」」2018年12月17日21時53分 スポーツ報知
- ^ “本多家廟屋”. 姫路市. 2021年1月12日閲覧。
- ^ “園内マップ”. 岡崎公園. 2010年1月27日閲覧。
- ^ “九華公園 - 本丸跡等”. 桑名市. 2010年1月27日閲覧。
本多忠勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:08 UTC 版)
「内閣総理大臣 織田信長」の記事における「本多忠勝」の解説
※この「本多忠勝」の解説は、「内閣総理大臣 織田信長」の解説の一部です。
「本多忠勝」を含む「内閣総理大臣 織田信長」の記事については、「内閣総理大臣 織田信長」の概要を参照ください。
本多忠勝(ほんだ ただかつ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 03:43 UTC 版)
「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の記事における「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説
関ヶ原の戦いにおける家康の死の真相を知る数少ない将。その後の秀忠の行動に不信感を持つ。
※この「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説は、「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の解説の一部です。
「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」を含む「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の記事については、「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の概要を参照ください。
本多忠勝(声:森岳志)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 23:13 UTC 版)
「決戦III」の記事における「本多忠勝(声:森岳志)」の解説
元康(家康)の家臣であり、忠誠心は人1倍強い。武将系統は「猛将」で兵種は槍騎馬を使う(長篠決戦のみ鉄砲足軽を使う)。
※この「本多忠勝(声:森岳志)」の解説は、「決戦III」の解説の一部です。
「本多忠勝(声:森岳志)」を含む「決戦III」の記事については、「決戦III」の概要を参照ください。
本多忠勝(ほんだ ただかつ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:25 UTC 版)
「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の記事における「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説
本多流戦場槍術の使い手。異名は「古今独歩の金剛石」または「金剛仁王」。大多喜城城主。五十七度の合戦で傷を一つとして受けたことがないと言われる誰もが認める猛将。名槍・蜻蛉切を得物とし片手で軽々と振るう。後援者は徳川家康。
※この「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説は、「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の解説の一部です。
「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」を含む「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の記事については、「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の概要を参照ください。
本多忠勝(ほんだ ただかつ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説
通称は平八郎、後に中務大輔。家康から友と信頼される重臣。自身も家康を「兄貴」と呼んで慕っている。血気盛んで豪快、三河武士を絵に描いたような性格で、愛槍「蜻蛉切」を振るい、戦場でもその勇猛さは健在。三方ヶ原の戦いでは山県昌景を相手に一本取る活躍を見せ、家康を逃がした。その後、天正壬午の乱でも兵力で優る北条家を相手にしても全く臆しておらず、逆に小牧・長久手の戦いでは士気の高さが殲滅戦となることを危惧した家康に諫められた。織田信雄の単独講和により豊臣家に敗れたことを納得出来ておらず、家中では反豊臣派の急先鋒となっている(ただし家康の思いも理解しているため、無用な騒ぎを起こすようなことはなく不平不満を述べるに留まっている)。
※この「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。
本多忠勝(ほんだ ただかつ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:09 UTC 版)
「BRAVE10」の記事における「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説
徳川家康の重臣で、清海に匹敵するほどの巨漢。信幸の義理の父親。上田城十番勝負では信幸側の先鋒として出場。
※この「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の解説は、「BRAVE10」の解説の一部です。
「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」を含む「BRAVE10」の記事については、「BRAVE10」の概要を参照ください。
本多忠勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 18:15 UTC 版)
「タイムスリップ探偵団」の記事における「本多忠勝」の解説
※この「本多忠勝」の解説は、「タイムスリップ探偵団」の解説の一部です。
「本多忠勝」を含む「タイムスリップ探偵団」の記事については、「タイムスリップ探偵団」の概要を参照ください。
本多忠勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:19 UTC 版)
「新・信長公記〜ノブナガくんと私〜」の記事における「本多忠勝」の解説
クラス番号31。湾岸の四天王と恐れられる一人。上杉・武田に次ぐ喧嘩最強と名高い大柄な体格の青年。未だ喧嘩無敗はおろか怪我一つ負ったことがないという伝説がある。
※この「本多忠勝」の解説は、「新・信長公記〜ノブナガくんと私〜」の解説の一部です。
「本多忠勝」を含む「新・信長公記〜ノブナガくんと私〜」の記事については、「新・信長公記〜ノブナガくんと私〜」の概要を参照ください。
本多忠勝と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 本多忠勝のページへのリンク