真田氏
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真田氏 | |
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本姓 | 滋野朝臣海野流?(異説あり) |
家祖 | 真田幸春?、真田頼昌?(異説あり) |
種別 | 武家 華族(子爵→伯爵) |
出身地 | 信濃国小県郡真田郷[注釈 1] |
主な根拠地 | 信濃国上田 上野国沼田 東京市麻布区 福井県福井市 |
著名な人物 | 真田幸綱(幸隆) 真田信綱 真田昌輝 真田昌幸 真田信幸(信之) 真田信繁(幸村) 真田幸昌 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
真田氏(さなだし)は、武家・華族だった日本の氏族。信濃国の豪族として興り、戦国時代に武田氏に属して勢力を伸ばし、武田氏滅亡後には真田昌幸が信濃国小県郡と上野国吾妻郡を領有する小戦国大名として自立。関ヶ原の戦いでは昌幸と次男信繁(幸村)が西軍、長男信之が東軍について分裂したが、信之の系統が江戸時代に信濃松代藩主家として続き[1]、幕末の戊辰戦争では官軍として奮戦して倒幕に貢献した[2]。明治維新後華族となり、当初子爵に叙されたが、維新の功により伯爵に陞爵した[3]。
起源
江戸時代に作成された『真田家系図』[注釈 2]によれば、真田氏は清和源氏流貞保親王の孫の善淵王を祖とする家系とされ、信濃国小県郡(現在の長野県上田市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子という真田幸綱[注釈 3]が小県郡真田郷を領して真田庄の松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったという真田家通字は『幸』または『信』。
近世には、幕府からの求めもあって大名の多くが自家の系図づくりを行い出自を名族に結びつける傾向にあり、真田氏系図も信州松代藩主家となった真田家が作成したものであることから、真田氏が清和源氏の出であるとする説は疑問である。そもそも祖宗としている海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているが、出自を清和源氏とすること自体がこれと矛盾する。海野氏との関係についても、自らを信濃の名族である滋野氏の嫡流である海野氏の傍流とし、出自を結びつけた可能性が大きく、こちらにも疑問符が付く。なお、真田家菩提寺の長国寺には、「松代侍従滋野幸貫」と刻まれた灯籠が存在し[注釈 4]、真田幸民を従四位に叙する宣旨でも「従五位守松代藩知事滋野朝臣幸民」と記載され[5]、松代藩主・藩知事真田氏が、滋野を本姓としていたことがわかる。『華族類別録』では貞保親王を祖とする滋野朝臣として記載されている[6]。
他には、真田郷が古代の官牧地域であることに着目し、国牧管理者の大伴氏が土豪化して真田を名乗ったとする説。また真田家の家伝に百済王の子孫とする一説(『真武内伝』)もあるが、これも出自とするのは不自然である。
『滋野氏三家系図』では、鎌倉時代中期の海野幸氏の子・長氏の子の幸春を「真田七郎」 としている。これが系図における真田の初出である。応仁2年(1468年)に起きた海野氏幸と村上頼清の戦い(海野大乱)では、真田郷の洗馬城が戦場となっており、この時期に真田氏が存在していれば、この戦いに巻き込まれていたことが考えられるが、その史料も無いので研究が必要である。
『大塔物語』には、室町時代の応永7年(1400年)に信濃守護小笠原氏に対する国人領主の抵抗として起こった大塔合戦において、大文字一揆衆の大将で、滋野三家禰津氏(根津氏)の当主禰津越後守遠光の配下に「実田」の名が見られ、これが「真田」の当て字とする説が現実的である。「実田」を「サナダ」と読むとすれば真田氏の初見となる[7]。旧真田町(上田市)に真田・横尾・曲尾などの地名・集落があったことなどから、一つの集落を領する程度の小土豪だったと推定できる[7]。 また吉沢好謙が延享元年(1744年)に著した『信陽雑志』によれば永享12年(1440年)の結城合戦に参陣した禰津越後守遠光の配下にも、大塔合戦と同じく、真田源太・源五・源六の名が見られる[4]。これらのことから、おそらく真田氏は滋野三家(海野・祢津・望月)である根津氏の支流だった可能性が濃厚であろうと考えられている。
はっきりしているのは、戦国時代のはじめころ、信州小県郡の山間にある真田郷に真田幸綱(幸隆)と名乗る在地の土豪がいたということである。
高白斎(こうはくさい、駒井政武)[注釈 5]が記した『高白斎記』[注釈 6]の天文18年(1549年)3月14日の条に「七百貫文ノ御朱印望月源三郎方へ被下候、真田渡ス、依田新左衛門請取」[注釈 7]と出ている。ここに出てくる真田氏が幸綱である[8]。
歴史
真田の地
真田氏発祥の地として知られている旧・小県郡真田町は、信濃川水系の神川の長谷寺(ちょうこくじ)沢の扇状地にあり、2006年(平成18年)に上田市に合併されている。標高750メートルほどの高所に開けている。旧・真田町は北に標高1649メートルの大松山、西に1379メートルのオコウ山、南に1301メートルの東太郎山、東に2066メートルの烏帽子山に囲まれた小盆地である[9]。真田は、独立した村でなく寛永6年(1629年)に甲石村(かぶといしむら)が真田村と横沢村に分かれ、大日向村も出来た。江戸時代の初頭には、甲石村の中の一集落と認識されていた。宝永3年(1706年)の「甲石之郷指出帳」(『上田半村明細帳』)に真田村の戸数は128軒、人数747人、馬数72疋と記載されている。[10]。
長谷寺は、天文16年(1547年)幸綱が一宇を建て、真田山種月院長谷寺と号し、上州の長源寺より伝為晃運(でんいこううん)大和尚を招請した[11]。天正2年(1574年)5月19日、幸綱が没し、この曹洞宗真田山長谷寺に葬られた。位牌には一徳斎殿月峰良心大庵主とある[12]。
小豪族時代
真田氏最初の拠点は真田郷の北西にある洗馬城といい、その後中央部の平坦地に内小屋城を築いた時期に真田郷全域を掌握したと考えられる。天文10年(1541年)の海野平の戦いにおける真田氏の動向は資料に無いが、戦いに敗れた海野棟綱が関東管領の上杉憲政を頼って上野国に逃れるのと同時期に、幸綱も上杉憲政の家臣で上野国箕輪城主・長野業正の下に身を寄せているので、当時は近隣の有力勢力である滋野一党に組み込まれて海野方で戦ったことが推定される。
武田家臣時代
上杉の援助による旧領奪回が困難になると、信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(信玄)に仕えて旧領を回復すると共に、縁故の滋野氏の支族が多い東信濃や上野方面で活躍し、次第に真田氏の勢力基盤が築かれていった。この時期の本拠地は真田氏館、真田本城とも言われるが定かではない[13]。武田家中においても信濃先方衆の有力武将として、幸綱のみならず嫡男・信綱、次男・昌輝も活躍し、信綱は家老に、昌輝は信玄直属の百足衆を率いた時、信玄に「兵部(昌輝)は我が両目」と言わしめるほどであった。また、三男・昌幸は武藤家を、四男・信尹は加津野家をそれぞれ継いでおり、真田一族は武田家において重用されていたことが窺える。なお、武田24将に、真田信綱、昌輝(幸綱や昌幸が入ることもある)が入っており、親子兄弟からこれほど選ばれている例は他家にはない。
永禄10年(1567年)、嫡男・信綱が家督を継ぎ、天正3年(1575年)の長篠の戦いで当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、武藤喜兵衛を名乗っていた三男・昌幸が真田姓に復帰して家督を相続する。昌幸は信玄の近習を勤めたこともあり、武田氏滅亡時には武田勝頼に真田の影響下にある吾妻山中の要害の地岩櫃城に篭ることを進言したという。
武田滅亡以後
昌幸は武田氏が滅んだ後織田信長に恭順した。しかし本能寺の変で信長が横死すると、昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら混乱する信濃にあって主家を転々と変え、真田家の勢力維持に奔走する。
徳川氏と北条氏が甲信を巡って対陣した天正壬午の乱の和議では、上野を北条領とし、真田氏支配の沼田城周辺も北条に割譲するが、徳川はその代替地を用意することが定められた。しかし昌幸はこれを拒否したため徳川軍7千の攻撃を受けるが、昌幸は2千余人の城兵で上田城を守りきった(第一次上田合戦)。これで真田氏は独立した大名として認められることになる。
最終的に昌幸は上杉景勝を通じて豊臣秀吉の臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解する。そして徳川氏の与力大名となったことから、嫡男・信幸と本多忠勝の娘で家康の養女となった小松姫との婚姻が成った。これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸の所領の一部を収める領主だが実際は徳川の与力大名である長男・信幸(沼田城)の2家体制となる。
なお加津野家を継いだ信尹も武田家滅亡後は真田姓に戻り、北条・徳川・蒲生と主家を変えてながら真田分家を興している。蒲生氏郷の死後は徳川家に帰参して旗本奉行を勤め、大坂の陣では家康の使者として信繁を相手に交渉したことで名を上げた。この系統は以後5,000石の大身旗本として幕末まで続いている。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは昌幸は西軍、信幸は東軍に与して分裂した[注釈 8]。昌幸と次男・信繁は上田城で徳川秀忠率いる約3万の軍勢をわずか数千で迎え撃って秀忠軍を釘付けにし(第二次上田合戦)、秀忠の関ヶ原遅参の一因を作ったと言われる[15]。しかし努力のかいもなく戦いは東軍の勝利となり、同年12月13日に昌幸と信繁は紀伊高野山山麓の九度山に流刑となる[15]。
東軍についた長男・信幸改め信之は父の本領信濃国小県郡3万8000石を与えられ、占領していた上野国利根郡沼田城2万7000石と3万石の加増を加えて都合9万5000石を領して上田城に住した(信濃上田藩)[15]。
その後の大坂の陣では信之は出陣せず、豊臣方に参じた信繁が徳川方を寡兵で翻弄し日本一の兵と評された[16]。
元和8年(1622年)に信之は4万石加増のうえ信濃松代藩へ転封となり、松代城に住した。この際に沼田領3万石を長男信吉に分与した[15]。これにより支藩の沼田藩が立藩されたが、同藩は天和元年(1681年)に江戸・両国橋御用材の調達の遅れを理由とされ改易されている[17]。
松代藩は沼田藩と合わせて13万石の表高にされていたため、沼田藩の改易で松代藩は4郡95か村10万石となり、この石高で廃藩置県まで存続した[2]。
松平定信の次男[注釈 9]で真田家に養子に入り、8代藩主となった幸貫は、藩政改革に努めて佐久間象山を登用した。幕政でも海防掛老中に昇進した[2]。
伊予宇和島藩主伊達宗城の長男で[18]、真田家の養子に入った幸民が慶応2年(1866年)に最後の松代藩主に就任し、その翌年に江戸幕府は崩壊した[19]。
明治以降
王政復古後、幸民率いる松代藩は速やかに維新政府に恭順し、戊辰戦争では官軍の信州触頭として奥羽戦線に藩兵を送り会津藩との戦闘で戦功を上げた[2]。その功績により明治2年(1869年)に幸民に賞典禄3万石が下賜された[19]。同年の版籍奉還の後松代藩知事に任じられ、華族に列した。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[19]。
旧松代藩は表高(公的な米の生産高)は10万石だったが、現米(税収)では37,150石であったため、伯爵の内規である「現米5万石以上の中藩」に該当せず、1884年(明治17年)の華族令施行時に旧小藩知事として子爵に叙された[20][3]。しかし真田家の維新の功が考慮され明治24年(1891年)4月23日付けで伯爵に陞爵が認められた[3][18]。
幸民が死去した後には息子の幸正 - 幸治 - 幸長 - 幸俊と直系で続いている。なお、現当主の幸俊は工学者で慶應義塾大学教授である[21]。
また幸教の実子(幸民の義弟)である幸世は分家して明治29年(1896年)6月30日に男爵に叙されている[18]。
昭和前期、真田伯爵家の邸宅は東京市麻布区材木町にあった[22]。分家の真田男爵家の邸宅は長野県埴科郡松代町にあった[23]。
現在は「真田会」という親睦会があり、代表理事は昌幸の女婿小山田茂誠から数えて13代目に当たる小山田恒雄(1932生)が務めている[24]。
家紋
江戸時代の真田氏の定紋は『寛政重修諸家譜』によると「真田銭」とも呼ばれる「六連銭」である。俗に「六文銭」とも「六紋連銭」ともいう。おもに六連銭は戦時の旗印として、「結び雁金」「洲浜」はそれ以外の場で使われたが、徐々に六連銭の使用頻度が高くなり、六連銭以外の紋の使用頻度は低下したが、替紋として引き続き使用された。
真田氏が六連銭を用いたのは、幸綱(幸隆)が武田氏に臣従した際との逸話が残されている。
真田氏の源流であるとされる海野氏は滋野氏嫡流を名乗り、滋野氏の家紋である「月天七九曜」にちなみ「月輪七九曜」を家紋にしていたことがわかっている。一方、江戸時代に岡部藩として存続した駿河安部谷の安部氏や越後長尾家(後の上杉家)の記録にある上州吾妻郡の羽尾氏、「長倉追罰記」に記載された羽田氏など、海野氏流を名乗る支族の家紋(旗印)に六連銭やその類似紋「六連点」(ろくれんてん)が登場する。これらは幸綱が武田氏に臣従する以前から用いていた痕跡があり、真田氏を含む海野氏流支族の六連銭は、海野氏からの継承ではないかと思われる。
現在のところ、中世海野氏が六連銭を用いた史料は確認されていないが、日本家紋研究会は『関東幕注文』に羽尾、大戸など海野一族が「六れんてん」を用いていること、江戸旗本海野家が六連銭を本紋としていること、現在の海野姓で地域を問わず広く六連銭が用いられていることから類推して、「六連銭は真田氏独占の家紋ではなく、信濃国の大族滋野氏から出た海野氏の代表家紋の一つであろう」としている。
またその他滋野氏系では、根津氏の代表家紋の一部にも六連銭が使われている。
江戸時代には、真田幸村を取り上げた物語や真田氏の武勇を題材にした講談などの影響で「六文銭=真田」と認識されるようになる。江戸時代や明治時代の浮世絵などでは、大坂の陣において真田幸村(信繁)の部隊が、「六文銭の旗」を掲げて徳川家康の本陣を襲撃する場面が描かれているが、「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)の真田隊の旗としては「総赤に金線」の旗が描かれ、旗紋は描かれていない。その一方で、六連銭が描かれた総赤の切裂折掛の幟旗があるが実際の使用については詳らかではない[25]。
- 六連銭
- 結び雁金
- 洲浜
研究史
真田氏は有力な武田家臣団であるとともに近世大名として存続していることから、戦国期以来の多くの家伝文書や藩政史料が現存しており、家史編纂の遅れや享保16年(1731年)の江戸藩邸焼失で失われた文書も多いものの、現在では1981年に『真田家文書』(米山一政編)として刊行されている。また、松代藩士の私選書である『真武内伝』や『滋野世記』、幕末に編纂された『真田家御事蹟稿』などの編纂物もあり、真田氏はもとより武田氏研究においても基本文献となっている。
近代には昭和戦前期に藤沢直枝が『真田文書集』(1940年)において関係文書を紹介し、猪坂直一は『真武内伝』などの編纂物のほか西上野の史料である『加沢記』や軍記物である『甲陽軍鑑』などの史料も活用して『評伝真田一家』(1940年)『真田三代年表』(1932年)『真田三代録』(1980年)などの定本を著述している。
昭和戦前期には史料紹介や戦記類が中心であったが、戦後には『信濃史料』や『群馬県史』など自治体史類の刊行や、武田氏、後北条氏など真田氏とも関係する戦国大名研究の進捗に伴い実証的研究が本格化している。小林計一郎は『真田一族』(1973年)において数々の新見解を示しているほか、近世の真田藩政史では上野国吾妻郡や沼田藩政史の研究を行った山口武夫、松代藩政史の研究を行った田中誠三郎らがいる。ほか、真田氏の近世大名化の過程を検討した河内八郎や山岡信一、吾妻郡攻略に関する唐沢定市、系譜考証の寺島隆史、武田氏研究の立場から研究史の整理や領国形成過程に関して検討を行っている堀内亨や柴辻俊六ら多くの研究者がいる。
系譜
真田氏系図
- 太字は当主、実線は実子、点線は養子。
海野長氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茂氏 | 真田幸春 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸直 | 幸重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼幸 | 幸康 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
則幸 | 幸遠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
善幸 | 幸永 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸房 | 幸昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸義 | 幸信 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸数 | 幸定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
持幸 | 幸秀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏幸 | 幸守 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
棟綱 | 幸則 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | 頼昌1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
恭雲院 | 幸綱2 | 矢沢頼綱 | 常田隆永 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信綱3 | 昌輝 | 昌幸3 | 山手殿 | [旗本] 信尹 | 金井高勝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信興 | [越前真田家] 信正(幸明) | [旗本] 昌親 | 信勝 | [松代藩主家] 信之4 | 小松姫 | 信繁(幸村) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[沼田藩主家] 信吉① | 道鏡慧端 | 信政③→5 | [埴科藩主家] 信重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
熊之助② | 信利④ | [真田勘解由家] 信就ⅰ | 幸道6 | 豊姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[旗本寄合席] 信音⑤ [無嗣断絶] | 武藤信秋 | 栗本直賢 | 信方ⅱ | 高力長氏 | 高力定重 | 本多信里 | 本多信門 | 信弘 | 信弘7 | 源次郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[名跡再興] 信興⑥ | 信清ⅲ [連座改易] | 信興 | 定重 | 幸詮 | 信安8 | 柳生俊峯 | 本多忠盈 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政賢⑦ [改易断絶] | 信照ⅳ | 松平(深溝)忠恕 | 女 | [彦根藩主家] 井伊直幸 | 幸弘9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信好ⅴ | 松平忠馮 | [白河藩主家] 松平(久松)定信 | 幸専9 | 真珠院 | 心蓮院 | 井上正甫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貫元ⅵ | 真田幸忠 | 幸貫10 | 真月院 | 真月院 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信忠ⅶ | 幸良 | 幸忠[譜 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志ん | 旦ⅷ | [宇和島藩主家] 伊達宗城 | 幸教11[譜 2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道泰ⅸ | 幸民12[譜 3] | [分家(男爵家)] 幸世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸正13 | 清棲幸保 | 幸邦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸治14 | [分家] 幸尚 | 女 | 成沢直道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸長15 | 真田幸徳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸俊16 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真田氏系図(傍流)
幸綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昌輝 | 昌幸 | [旗本] 信尹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[越前真田家] 信正(幸明) | [旗本] 昌親 | 左馬助信勝 | 信繁(幸村) | 竹林院 | 村松殿 | 小山田(真田)茂誠 | 女 | 幸政 | 内蔵助信勝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸寛 | [旗本] 信親 | [秋田真田家] (三好姓) 三好幸信 | 石田之親[譜 4] | 幸昌(大助) | [仙台真田家] (片倉姓) 片倉守信1 | 真田(小野)之知 | 幸信 [無嗣断絶] | [旗本] 幸吉 | [旗本] 信利 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸明 | 信弘 | 隆長① | 義国 | 辰信2 | [松代藩家老小山田家] | 幸頼[譜 5] | 信豊[譜 6] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸里 | 隆長② | 春行 | 信成3 | 真山為春 | [分家] 英信 | 幸隆 | 信紀[譜 7] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信光 | 隆長③ | 利康 | 信経4 | 大田信周 | 信章 | 幸久 | 信積 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸度 | 隆矩 | 康春 | 信親5[譜 8] | 信珍6[譜 9] | 某 | 幸定 | 信育 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸孝 | 幸政 | 斉弘 | 金右衛門 | 信凭7 | 信知 | 幸充[譜 10] | 信緜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸寛 | 幸由 | 康国 | 吉弥 | 幸清8 | 幸親 | 幸清 | 幸徳[譜 11] | 信和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸衛 | 幸得 | 弘篤 | 初次郎 | 真田幸歓9 | 幸修[譜 12] | 某 | 信敬 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一夫 | 幸友 | 弘包 | 浪蔵 | 昌棟10 | 萬寿 | 萱場順 | 某 | 紋三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸雄 | 幸厚 | 弘佸 | 真田喜八郎 | 真田徹寿11 | 久次郎 | 興三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸尚 | 隆長④ | 真田長八郎 | 孫太郎 | 治彦12 | 忠三 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆炬② | 義光 | 博明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸憲 | 義博 | 博通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸和 | 英太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連作品
- 真田太平記 - 池波正太郎作の歴史小説
- 真田太平記 (テレビドラマ) - 上記小説を原作としたテレビドラマ
- 真田丸 (NHK大河ドラマ)
脚注
注釈
- ^ 小県郡真田村、長村真田、現・長野県上田市真田町字長字真田の近辺。
- ^ 弘化4年(1847年)6月に書き上げられた[4]。
- ^ 「幸隆」の諱が系図上に見られるが、確実な文書からは「幸綱」であることが指摘される。
- ^ 長野市の長国寺の灯籠。
- ^ 武田信玄の近習[8]。
- ^ 別称『甲陽日記』。
- ^ 「七百貫文の御朱印望月源三郎方へ下され候、真田渡す、依田新左衛門請け取る。」
- ^ 同年7月21日、徳川家康の命で会津の上杉景勝を討つため下野国犬伏(栃木県佐野市)で陣を敷いていた所へ石田三成の密使が到着した。父子3人で真田家の去就を話し合った[14]。
- ^ 公称上。実際には幸貫は長男であるが、側室の子であったこともあり、直後に産まれた正妻との子(松平定永)が公式には長男とされたため。
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『真田氏』 - コトバンク
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参考文献
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- 大野信長『戦国武将100家紋・旗・馬印file』学研パブリッシング、2009年11月。ISBN 9784054043497。
- 小林計一郎校注『真田史料集』新人物往来社〈史料叢書〉、1985年7月。ISBN 4-404-01269-1。
- 笹本正治『真田氏三代 -真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2009年5月。ISBN 978-4-623-05444-2。
- 長野市『真田家文書 : 長野県宝』 3巻、松代文化施設等管理事務所〈真田宝物館収蔵品目録〉、2006年3月。全国書誌番号:21043184。
- 丹羽基二『姓氏家系大事典』新人物往来社、2002年10月。ISBN 978-4404029720。
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
関連項目
外部リンク
- 『絵本真田三代実記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『真田氏』 - コトバンク
- 真田家関連|真田家の歴史
- 城郭からみた真田家の歴史〜勢力拡大と城郭〜
真田家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:19 UTC 版)
真田昌幸 信濃上田城主。正室(山手殿)は三成の正室(皎月院)の姉。 真田信幸 真田昌幸の長男。信繁の戦の才を三成に誇らしく話す。正室は家康の重臣・本多忠勝の娘。 真田信繁 真田昌幸の次男。信幸自慢の弟。
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真田家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 15:03 UTC 版)
真田一男(さなだ かずお)〈18〉 演 - 神木隆之介(幼少期:宮城孔明、乳児期:殿岡祥一郎) 真田家の長男、高校3年生。自分を犠牲にしてでも家族のために尽くすのが長男の役目と考えており、考えすぎて暴走してしまうことも少なくない面倒くさい男(自身でも承知しており、そんな自分が嫌でしょうがないと思っている)。父・実に「長男性背負いこみ症」と名づけられた。 新聞配達、ガソリンスタンドのバイトで家計を支えている。学校の成績は良いが、存在感がなくクラスメイトに名前を覚えてもらえず、卒業写真に載せる写真が一枚もない地味な学校生活を送っている。しかしその自覚はない。 バイト先の先輩、鈴木ソアラと勢いで関係を持ってしまう。父親譲りの繁殖力で一度の関係だけでソアラを妊娠させてしまい、元彼の豊田オサム(サム)らと色々あった後責任を取り婚約。家庭を守るため就職を決意するが自分のやりたいことを諦めないで欲しいというソアラの気持ちに応え、大学進学のため勉強を始める。滑り止めの大学には落ちたが本命の国立大学に合格し晴れて大学生となった。大学デビューによる軽薄化とその反動による五月病に陥り周囲を悩ませるも、はじめの父親となり、家を失った真田家の放浪生活に付き合う中で落ち着いてゆき、実の楽天主義的な言葉を受け入れるまでになった。四郎ほどではないが野球の才能があり、サムの草野球チームに強引に加入させられる。打撃フォーム、スイングが衣笠祥雄に似ているらしい。 真田実(さなだ みのる)〈42〉 演 - 田辺誠一 真田家の父、カメラマン。人物関係の写真撮影を中心に活動しているが、最近は仕事の依頼が全く来ない。しかしあまり悩む様子もない天性の楽天家。そのため自分たち一家が貧乏という意識が全くない。 前妻のメグミと死別した後、仕事で出会った恵とできちゃった再婚した。恵や子どもたちを深く愛しており、メグミのことも今でも大切に想っている。 真田恵(さなだ めぐみ)〈38〉 演 - 光浦靖子 真田家の母、実の再婚相手(後妻)。才悟の実母で、一男たちの継母。旧姓は田所。見た目は地味だが子どもたちを分け隔てなく愛し、実の事を世界一のカメラマンとして尊敬している良妻賢母。家族会議で興奮するとちゃぶ台をひっくり返すクセがある。 かつては川越で「そよ風」というカフェを開いていたが取材に訪れた縁で実と付き合い、子ども(才悟)を妊娠したため結婚。東京の真田家の一階でカフェ「日だまり」を開くも、閑古鳥が鳴いている状態。 料理上手で、実の一目惚れのきっかけも「そよ風」時代に自ら作ったカレーの味であった。恵は才悟同様メグミの姿が見えていた。ただし才悟とは違い、始めは存在は感じていたが見えていたわけではなく、徐々に見え隠れし始めて完全に見えるようになった。 真田二子(さなだ にこ)〈16〉 演 - 有村架純(幼少期:千葉ほのか) 真田家の長女、高校2年生。勤勉家でまじめな性格、家事も率先して手伝う。一男の同級生の宇野と付き合っているが、未だ肉体関係はない清い交際をしている。 真田三子(さなだ みつこ)〈15〉 演 - 金井美樹(幼少期:畠山紬) 真田家の次女、中学3年生。芸能界に入る夢を抱いている。無くし癖があり、いつも何かを探している。EXILEが好き。 真田四郎(さなだ しろう)〈13〉 演 - 平岡拓真(幼少期:中村晋) 真田家の次男、中学2年生。野球部に所属、日ハムのファン。空気が読めない性格で学校でいじめられているが本人に自覚がない。Mの傾向がある。 真田五月(さなだ さつき)〈12〉 演 - 赤石那奈(幼少期:武居涼奈、乳児期:光田小春) 真田家の三女、小学6年生。肥満児。一家きっての大食漢で、食べ物の話題になると異様に食いつく。マキシマムザホルモンが好き。年齢に似合わない渋い熟年俳優が好き。 真田六助(さなだ ろくすけ)〈10〉 演 - 福島北斗(乳児期:谷口英太郎) 真田家の三男、七男と双子で小学5年生。七男との区別は家族でも付かない。少女時代が好き。 真田七男(さなだ ななお)〈10〉 演 - 福島海斗(乳児期:谷口雄太郎) 真田家の四男、六助と双子で小学5年生。六助とハモって喋ることが多い。男が好きか女が好きかという話題で「男が好き」と答えた。 真田才悟(さなだ さいご)〈7〉 演 - 加藤清史郎 真田家の五男、小学2年生。実と恵の間に生まれた子供。母とお揃いの赤い縁取りの眼鏡をかけている(才悟役の加藤は元々遠視であり、劇中でかけている眼鏡には実際に度が入っている)。一男の事を尊敬している。なぜか幽霊のメグミの姿が見えて会話が出来る。そのため図らずもメグミの言葉を代弁してしまうことになる。 同名の母親との差別化のため、メグミの事を呼び捨てにする。家族会議の出席者の数を数え、驚くのが毎回恒例となっている。 年の割にマセているところがあり、メグミのおっぱいを「並」と評すも触りたくて常に狙っていた。ようやくメグミのおっぱいを触ったものの、その後彼女がしばらく姿を消したことで自責の念にかられていた。おっぱいを触った自分はもう童貞ではないと思っている。物語の終盤ではメグミにプロポーズした。 真田メグミ(さなだ メグミ)〈享年30〉 演 - 広末涼子(特別出演) 実の前妻(幽霊)。才悟を除く子供たちの実母、元ストリッパー。ストリッパー時代の芸名は「二代目ビクトリア蘭子」。舞台写真を撮影したのが縁で実と知り合い結婚、7人の子供をもうける。 生きていれば恵とは同い年。なぜか幽霊として真田家の前に現れるが、才悟以外は目に見えない。幽霊ではあるが、物体に触れることはできる。酒豪で口も態度も悪いくせに人一倍繊細な面倒くさい女。戒名は慈恩舞照信女。
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真田家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:58 UTC 版)
真田信幸 声 - 岸尾だいすけ(ドラマCD、アニメ) 昌幸の長男。関ヶ原合戦以後は真田家当主。史実同様、作品途中で「信之(読みは同じ)」に改名している。若いころは少し髪が短い。ツッコミ役で常識人。 父と弟の破天荒ぶりに手を焼いており、関ヶ原の戦いの後は、反省の色を全く見せない本人達の代わりに、平謝りに謝って家康に同情され、死罪を許してもらった。実際はあまりしていないにもかかわらず、父と弟からはいつも土下座しているイメージを持たれており、「ドゲザムライ」「地面より低い頭」などと呼ばれたこともある。 恐妻家で妻の小松に頭が上がらないが、それでも小松のことを大切に思っており、危険な目に遭わせたくないからと強く意見することもある。また生き残り編で妻帯していない時期であることを述べられた際には、盛大に動揺していた。後述の通り、見合いの際に稲姫(後の小松)を「忠勝の息子になる」という理由ではなく、一人の女性として意識し、彼女の心を動かした。また、彼の特徴は「嫁が怖い」ということで周囲に認識されており、彼のことを調べていたお江は彼自身の情報が一切出てこないことにすっかり困惑してしまった。 名を「信之」に改めたころから関ヶ原遅参の恨みから秀忠に目の敵にされるなど、基本的に損な役回りになることが多い不幸なキャラクターではあるが、その我慢ぶりから家康には気に入られている。その家康が独自に算出する天下人の条件である我慢値は、家康の100に対して98、なお底を見せていないらしく、家康から一方的に次の天下人に最も近いのではと思われている(史実での晩年の信之は、武将たちが世の中を去っていく中で、数少ない戦国時代を良く知る貴重な人間として幕府から一目置かれて優遇されていた)。 真田昌幸 声 - 伊藤健太郎(ドラマCD、アニメ) 真田家当主。信幸、幸村兄弟の父。口がいつも描かれておらず、いつも目を細めている(たまに真顔になったとき、目を開けて瞳を覗かせることがある)。8巻において、ニックネームが「ユッキー」であることが判明した(ただし、作中では誰にも呼ばれず、北条家へ臣従するまえに幸村に受け継がせている)。幸村と気が合い、信幸をからかうことに生きがいを感じている。そのため信幸が困ると生き生きとし、信幸を弱らせるためとあらば多少の危険も辞さない。彼のみならず、様々な人物の弱みを握ることを得意とする。飄々として掴みどころのない人物で、Vサインを出すのが癖。 変装(特に女装)の名人と自負するが(幸村も同様)、信幸にはアッサリ見破れるような変装である。しかし、どういうわけか彼以外の人間にはほぼ100%気付かれない。そのため、蟄居を命ぜられた後も家康や秀忠に臆面もなく接近する。 史実通り九度山に滞在していたのはわずかの間で、長い間信之の居城に居座っていたが、やがて暇つぶしのために旅に出る(幸村は彼と行動を共にしている)。しかし、家康を散々からかった後で涼しい顔をして帰ってきた。 真田家初登場の前に武田親子の回想で後姿だけで先に登場しており、また晴信時代(幼少期)は源五郎名義で登場。人質として晴信の手元に預けられたものの、図々しい言動(晴信をして「勘介や幸隆を上まわるうっとうしさを感じる」「この時代であばれさせてはいけない」と言わしめている)や女装癖はこのころからである。 作中では幸村と並びトラブルメーカーとしての性質が強く、史実での権謀術数に長けた名将としての性質は、要領がよく信幸を始めとする周囲を手玉に取るという形で表現されている。あらゆる方法で真田一族を生き残らせようとするが、その発想は常に信之をはじめとする常人たちの理解の範疇を超えており、生き残り戦に関しては真田氏を美少女「サナ」として擬人化し乙女ゲームのような寸劇を挟むことで表現している。 真田幸村 声 - 前野智昭(ドラマCD、アニメ) 昌幸の次男。存命中の名前は、史実では信繁だが、本作では幼名の時期をのぞき、幸村で統一されている。作中で一二を争う無表情だがかなりの悪戯好きで、父のボケに便乗し、兄の家庭を掻き回す。父には「ユッキー」と呼ばれる。兄のことは「兄さん」と呼んでいるが、あまり兄として敬っている描写はない。目がいつも描かれていない。また、若いころは髪形が若干異なる。「楽勝」「口八丁」など、何か書かれた旗を持っていることがある。前回のあらすじをプレートにして掲げているなど口数が少ないが、時折吐く辛辣な台詞で兄を困らせることもある。 人生の大半を人質として送っており、相手をおちょくり、わがままを貫き通す術に長けている。上杉家へ人質へ送られた際には、直江兼続と意気投合し、景勝や家臣らを盛大に困らせていた。 10巻では大河ブームに乗って大坂の陣直前の動向が描かれた。ひげが生え、帽子を被り髪型が見えなくなっているものの、「面影ありまくりだよ!」と突っ込まれるほど、言動には変化がない。 作中では「壺を渡すのでお小遣いを入れて返却してください」という手紙を兄に送っているが、史実でも幽閉時に近くの寺に「焼酎を送って下さい」と同様の手紙を出しているという逸話が残っている。 小松 声 - 小林ゆう(ドラマCD、アニメ) 信幸の正室で鬼嫁、そして本多忠勝の娘。常に薙刀を携帯しており、女子プロレスラーのような剣呑な雰囲気を漂わせている。また、大抵の場合不機嫌そうな表情をしている。真田一家が最も恐れる存在で、信幸を手玉に取る昌幸や幸村も、彼女を敵に回すことは避け、むしろ手なずけようとする。父・忠勝には幼少期から強い対抗心を抱いており、突進してきた際には薙刀で徹底的にたたき伏せている。 信幸を完全に尻に敷いており、昌幸や幸村と結託することも少なくないが、稲姫と呼ばれていたころに出会った際、初めて自分に「忠勝の息子」になるという理由以外で接してくれた人物であることもあってか(気の強い彼女も、そのときは涙ぐんでいた)、本気で自分を心配する夫に「そ…そんなヘマしねーよっ」と照れながら返したり、彼に当たろうとする徳川秀忠を拳で黙らせるなど、稀に夫として大事にしている描写も見受けられる。また女性が想いをよせる方に甘い菓子を贈る日には、真っ赤になりながら握りつぶした菓子箱を投げつけるなど、素直になれない一面もある。なお風邪をひいた際、熱のせいで寝ぼけてプロレス技をかけられた信幸は「熱のせいか、いつもより手加減がない」と発言しており、夫には本気を出していないこともうかがえる。 登場はしないが、1巻の時点で既に子持ちであり、史実にもある「関ヶ原合戦の直前、昌幸が孫の顔を見に訪れた際に追い返した」ことが描かれている。 真田幸隆 昌幸の父親で、先々代真田家当主。武田信虎に領地を追われた過去があるが、山本勘介が放浪時代に知り合った縁で武田家に仕える。勘介には幸村同様、「ユッキー」と呼ばれる。 孫の幸村と容貌性格が酷似(晴信の言葉を借りれば、幸村の髪の「色を塗り忘れた」バージョン)しているほか、「戦国武将のこと知っちゃおう事典」という書籍を駆使することで晴信-勘介時代の時系列からでは未来にあたることまで知っている不思議な人物。なお、初登場時のすぐ後に真田家のエピソードが来た際、実は一人二役(幸隆と幸村は同一人物)ではないかと匂わせるシーンがある。 矢沢頼綱 昌幸の従弟。上杉家の人質に下った幸村の付き人として越後に向かうが、幸村の専横と兼次の悪乗りに心身ともにとことん疲弊する。 真田幸昌 幸村の長男。10巻より登場。容姿は祖父である昌幸にうり二つであり、髪の色は曾祖父の幸隆に似ている。蟄居していた幸村と共に、豊臣家重臣の大野治長と面会するも、父親と一緒にふざけまくっており、治長に長い葛藤を強いた。
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真田家
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パーソナルカラーは緋色、イラストには六文銭の意匠がある。騎馬隊と槍足軽で大半を占め、弓足軽と鉄砲隊、砲兵が少数存在する。寡兵で奮戦した逸話から勢力としては最も少ない。計略は転身や城内からの強襲、城内にいる真田家もしくは勢力不問の人数で効果が変化、城内でのみ発動できる裏計、普請と設置陣形を掛け合わせた真田丸とその内外で効果が上下する計略を持つ。 於菊 小山田茂誠 唐沢玄蕃 河原綱家 小松姫 真田信幸 真田昌親 真田昌幸 真田幸村 竹林院 矢沢頼康 横谷左近 阿梅 穴山小介 海野六郎 筧十蔵 霧隠才蔵 真田大助 真田大八 猿飛佐助 三好清海 三好伊三 根津甚八 三好幸信 望月六郎 由利鎌之介 隆精院 池田綱重 鈴木忠重 堀田興重 山手殿
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真田家
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「変身忍者嵐 (漫画)」の記事における「真田家」の解説
真田信繁 真田信幸 真田昌幸 信繁・信幸の父親。自信家。真田家を存続させるため、息子たちを東西それぞれの陣営に所属させた。 ハヤテを一目見て「オモシロイ男」と評す。猿に操られ、秀忠の軍を城内を誘き寄せてから攻撃した。猿が倒された後に正気に戻り、佐助の死を悼んだ。
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真田家
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「プリンセス・トヨトミ」の記事における「真田家」の解説
真田家の男には、大阪国が守ってきたあるものを最も近い場所で見守りつづける役目がある。 真田 幸一(さなだ こういち) 大輔の父。お好み焼き屋「太閤」主人。腕は確かで店の評判も良いが、不器用かつ頑固な性格で、雑誌のインタビューを断り続けている。タテジマの球団ではなく広島東洋カープのファンで、特に前田智徳が好き。茶子の実母とは幼馴染だった。実は彼こそが現在の大阪国総理大臣である。 大坂冬の陣で徳川軍に大打撃を与え、夏の陣では家康本陣に決死の突貫攻撃を仕掛けて「日本一の兵」と賞された豊臣軍主力・真田幸村に由来。 真田 竹子(さなだ たけこ) 大輔の母。大輔の容姿は彼女譲りである。 幸村の正室・竹林院(竹姫)に由来。 真田 昌一(さなだ しょういち) 大輔の祖父で、幸一の父。「太閤」の店番で忙しい父母に代わってよく大輔の面倒を見ていた。大輔が小学1年の時に死去。 幸村の父・真田昌幸に由来。
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真田家
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真田幸村 智将と称される伝説の武将。紀州に蟄居を命じられていたが、ガンリュウ生存の報を聞き付け、彼を召し抱えようとした。文武に秀で、豪放磊落で知的な大物ではあるが、乱花にすら手を出そうとするなどややスケベすぎるところがある。ガンリュウからは「恥将の間違いじゃねーの」とまで言われていた。 猿飛佐助 若き天才忍者。乱花も見惚れるほどの美少年。幸村に心酔しており、類稀な俊敏さと狡猾な戦闘スタイルを活かした接近戦を得意とする。 元は伊賀忍者のエリートとして育てられ、半蔵の命を受けて幸村暗殺に向かっていた。しかし5年前(西暦1607年)、才蔵により捕らえられ、幸村の必死の説得により真田十勇士に加えられることとなった。幸村からは本当の息子のように可愛がられている。千代松 佐助が飼っている猿。母親とはぐれていた所を佐助に拾われた。 霧隠才蔵 幸村の家臣。常識人。佐助が召し抱えられた後は、彼の良き兄貴分として面倒を見てきた(佐助からは「兄上」と呼ばれ慕われている)。佐助と共に幸村の身辺警護を仰せつかっている。 三好清海入道 幸村の家臣。巨漢の僧兵で、幸村の命を受け、柳生忍軍に追われる武蔵を匿った。
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真田家
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「天地人 (NHK大河ドラマ)」の記事における「真田家」の解説
初音(はつね) 演:長澤まさみ 昌幸の娘で幸村の異母姉。母の身分が低かったがために、忍びとして育てられた。小さな鈴を身につけており、鈴の音とともに相手の前に現れることがよくある。 信長に間者として仕え、織田家と付き合いのある京の豪商の娘と名乗り、使者として越後へとやって来た際に兼続と出会う。信長を危険視していた原作と対照的に、本作では信長に好意的で、本能寺の変の際には光秀に非難の言葉をぶつけていた。 信長亡き後、真田家に戻ったが、北条家と好を通じるため人質として小田原城に送られ、逃げだしたために真田家から命を狙われた。しかし、三成が秀吉に助命嘆願したことにより自由の身となり、以後は三成の側にいることを選んだ。関ヶ原で三成が破れると伊吹山に潜伏する手助けをするが、三成は甲斐なく捕らえられ、その最期を見届けた。後に晩年の兼続を訪ね、南蛮船に乗って旅に出ることを伝える。 真田幸村(さなだ ゆきむら) 演:城田優 昌幸の次男。上杉家との同盟を望む真田家より人質として春日山城に入る。当初は兼続や越後の人々を信頼していなかったが徳川軍が上田に侵入した際の兼続の義ある上杉のやり方に惚れ込み、戦が終ると越後に戻り兼続に弟子入りする。その後、真田家が豊臣家に臣従したため人質として大坂城に入り、秀吉の近習となった。関ヶ原の戦い後、西軍に属したため高野山に追放される。その後、大坂の陣で豊臣方として活躍するが、敗戦の色が濃くなり落城間際に兼続の意を受けて千姫を逃がし、その後に戦死する。 真田昌幸(さなだ まさゆき) 演:岩松了 信濃の小大名。初音や幸村の父。情勢に応じて様々な勢力を主家とし、また裏切るなど家の繁栄や安泰のためには手段を選ばない。 その一方で北条攻めでの敵に対しても礼節を持って接する上杉のやり方には感服した。関ヶ原の戦い後、敗北した西軍に属したため息子の幸村とともに高野山に追放される。 猿飛佐助(さるとび さすけ) 演:白倉裕二 真田家の忍。北条家の人質となるはずであった初音が脱走すると、その行方を追うために上方に派遣される。
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真田家
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真田幸村 声:- / 石川英郎 真田昌幸の息子。幸村をはじめとした真田家の面々は原作には登場しない。松風を欲して慶次と親しくなり、慶次は彼の初陣の時に秀吉から拝領した名馬・野風を譲った。大道寺との戦いに参戦後、伊達政宗を小田原陣に参戦させるための交渉を任せられた慶次に同行する。秀吉の寵愛を受けているが、小田原の温泉において湯気で顔が見えなかったとはいえ秀吉を爺さん呼ばわりしてしまい、秀吉本人と分かった瞬間は恐れおののいていた。当初の風貌のモデルは長渕剛であるが、ヒゲを剃り正装してからは普通の美男顔になっており、眉毛の生え方などは全く変わっている。遊郭での喧嘩は死に損という登場の際のエピソードは原作における庄司甚内のそれを流用している。 猿飛佐助 声:- / 宮崎寛務 幸村の友で沙霧の兄。筋骨隆々な巨漢として描かれている。幼少の頃から幸村と修行をしていた。真田荘が北条忍軍に襲われ沙霧が失明したので出家していたが、沙霧が幸村への慕情に決着をつけた上で出家したため、伊達との交渉に赴いた幸村に同行する。本作中では幸村と同年代として描かれるが、架空の人物であり他の創作物の描写では幸村より若く書かれることが多い。原作には登場しないが隆慶一郎の各小説にはよく登場し、特に『花と火の帝』では重要な脇役である。 源爺 佐助、沙霧とともに真田忍軍の生き残り。慶次と佐助が座談している際に天井から慶次の杯に毒を垂らしたが、ことごとくかわされた。正確に慶次の実力を見抜いた。 三好清海 幸村の家臣。破壊活動に従事していた忍び。生来髪がないが、そのことに触れられると烈火の如く怒る。小田原の役に従軍する。佐助同様に架空の人物であり、原作では登場しない。 真田昌幸 幸村の父。秀吉に北条氏による名胡桃城奪取を知らせる。老獪で狡猾な人物であり、秀吉との駆け引きは慶次らに「サルとタヌキの化かし合い」と評された。一方で慶次たちにより幸村が美々しく武装させられて登場したのを見た時には嬉しそうに目を潤ませるなど、父親らしい姿を見せる場面もある。景勝、利家とともに小田原の役に出陣する。 真田信幸 真田昌幸の長男で幸村の兄。松井田城攻めの時、幸村が軍にいないことを知った父を落ち着かせた。 沙霧 声:- / 斉藤佑圭 猿飛佐助の妹。幸村が好意を寄せていたが、戦で失明する。その後、兄・佐助の後顧の憂いを絶つため仏門に身を置く。 堀田五兵衛 真田の老臣。清海たちが幸村の帰城、そしてそれに同行する慶次の力を見極めるためあのような行動に出たことを慶次に伝え謝罪する。
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