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EXILE

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/09 11:07 UTC 版)

EXILE
基本情報
出身地 日本の旗 日本
ジャンル J-POP
活動期間 2001年 -
レーベル rhythm zone
事務所 LDH
公式サイト EXILE Official Website
メンバー
HIRO
MATSU
USA
MAKIDAI
ATSUSHI
AKIRA
TAKAHIRO
KENCHI
KEIJI
TETSUYA
NESMITH
SHOKICHI
NAOTO
NAOKI
旧メンバー
SHUN( - 2006年)

EXILE(エグザイル)は、日本の14人組ダンス&ボーカルユニット。音楽に留まらず、雑誌、劇団、アパレルなど、活動を自己制作する。俳優やタレントなどのソロ活動をするメンバーもいる。

所属事務所は、リーダーのHIROが社長を務める株式会社LDH研音と業務提携している。レーベルはrhythm zone

目次

略歴

2001年 - 第一章

  • 1999年、HIROを中心にMATSUUSAMAKIDAISASAの5人で「J Soul Brothers」を結成。
  • 2001年、SASAが脱退。新ボーカルにATSUSHISHUNが加入。8月24日より「EXILE」と改名し再始動。
  • 2001年9月27日、シングル『Your eyes only 〜曖昧なぼくの輪郭〜』でデビュー。
  • 2003年2月13日、2ndアルバム『Styles Of Beyond』を発売。初のアルバム首位を獲得。
  • 2003年12月3日、3rdアルバム『EXILE ENTERTAINMENT』を発売。初のミリオンセラーを達成。
  • 2003年12月31日、ZOOのカバー曲『Choo Choo TRAIN』で紅白歌合戦に初出場。
  • 2004年6月30日、15thシングル『real world』を発売。初のシングル首位を獲得。
  • 2004年9月、ミュージカル「HEART of GOLD」を企画、主演。まだ加入前のメンバーも多数出演。
  • 2005年1月1日、初のベストアルバム『PERFECT BEST』を発売。
  • 2006年3月29日、ボーカルのSHUNがソロ活動移行のため脱退。同日発売の4thアルバム『ASIA』が6人による最後の作品となった。
  • 2006年4月21日、MUSIC STATIONで6人が一夜限りの再結集。当時の最新曲『YES!』とデビュー曲『Your eyes only 〜曖昧なぼくの輪郭〜』を披露、事実上のラストライブを行った。

2006年 - 第二章

  • 2006年6月6日、AKIRAが加入。9月22日、参加者約1万人に及ぶ「VOCAL BATTLE AUDITION 2006」にて優勝を飾ったTAKAHIROが新ボーカルとして加入、7人組となり再始動。
  • 2007年2月14日、23rdシングル『』を発売。同曲は、オリコン1000曲目の首位獲得曲となった。
  • 2007年8月5日、「EXILE LIVE TOUR 2007 EXILE EVOLUTION」最終日に岡村隆史が登場。1日限りのユニットオカザイルを結成。
  • 2008年1月1日、「EXILE PERFECT YEAR 2008」を宣言。ベストアルバム3枚発売、アニメ「エグザムライ」本編発売、雑誌「月刊EXILE」創刊、劇団EXILE公演、初のドームツアー開催、を発表。
  • 2008年12月30日、『Ti Amo』にて第50回日本レコード大賞受賞。
  • 2009年1月10日、初の冠番組「EXILE GENERATION」が放送開始。

2009年 - 新生

  • 2009年3月1日、「EXILE GENERATION」の全容を発表。(二代目) J Soul Brothers の7人、KENCHIKEIJITETSUYANESMITHSHOKICHINAOTONAOKIが加入、計14人となる。
  • 2009年11月12日、天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典で、奉祝曲『太陽の国』を献納する。
  • 2009年12月30日、『Someday』にて第51回日本レコード大賞受賞。2連覇となる。
  • 2010年7月より、初のスタジアムツアー「EXILE LIVE TOUR 2010 FANTASY」を開催。約110万人を動員。
  • 2010年12月30日、『I Wish For You』にて第52回日本レコード大賞受賞。3連覇となる。
  • 2011年1月15日、香港で開催された「十大勁歌金曲頒奨典礼」に出演。
  • 2011年4月2日、東日本大震災発生を受け「日本を元気に」というテーマのもと活動していくことを発表。
  • 2011年9月14日、10周年記念と復興支援曲として、37thシングル『Rising Sun/いつかきっと…』を発売。
  • 2011年9月25日、北京で開催された「三国演義-中日韓風雲音楽祭」に出演。
  • 2011年10月9日、ベトナム・ハノイで開催された「第2回日越友好音楽祭」に出演。
  • 2011年12月11日、「EXILE LIVE TOUR 2011 TOWER OF WISH ~願いの塔~」東京ドーム公演に岡村隆史が登場。4年ぶりにオカザイルが復活した。
  • 2012年1月1日、アルバム『EXILE JAPAN/Solo』を発売。グループ並びに男性アーティスト史上初の10年連続アルバム首位獲得と自身初の3週連続首位獲得となった。

メンバー

人名 担当 備考
HIRO
(ヒロ)
パフォーマー
  • 1969年6月1日生まれ、本名:五十嵐広行(いがらし ひろゆき)
  • 広島県生まれ[1]神奈川県横浜市育ち[1]。血液型:AB、身長174cm、体重63kg。
  • リーダーであり、EXILEの所属事務所LDHの社長も務める。
MATSU
(マツ)
パフォーマー
  • 1975年5月27日生まれ、本名:松本利夫(まつもと としお)
  • 神奈川県川崎市出身。血液型:O、身長170cm、体重58kg。
  • EXILEでの活動と並行し、俳優活動も行っている。
USA
(ウサ)
パフォーマー
  • 1977年2月2日生まれ、本名:宇佐美吉啓(うさみ よしひろ)
  • 神奈川県横浜市出身。血液型:AB、身長177cm、体重65kg。
  • EXILEでの活動と並行し、俳優活動も行っている。
MAKIDAI
(マキダイ)
パフォーマー
  • 1975年10月27日生まれ、本名:眞木大輔(まき だいすけ)
  • 神奈川県横浜市出身。血液型:O、身長180cm、体重65kg。
  • EXILEでの活動と並行し、俳優活動も行っている。
  • 多数の楽曲でDJを担当。2008年DJ MAKIDAIとして初MIX CDを発売。
ATSUSHI
(アツシ)
ボーカル
  • 1980年4月30日生まれ、本名:佐藤篤志(さとう あつし)
  • 埼玉県越谷市出身。血液型:A、身長175cm、体重67kg。
  • 多数の楽曲を作詞作曲。楽曲提供もしている。
  • 2009年初ソロライブを行う。2011年EXILE ATSUSHIとしてソロデビュー。
AKIRA
(アキラ)
パフォーマー
  • 1981年8月23日生まれ、本名:黒澤良平(くろさわ りょうへい)
  • 静岡県磐田市出身。血液型:A、身長184cm、体重74kg。
  • 2006年EXILEに加入。
  • EXILEでの活動と並行し、俳優活動も行っている。
TAKAHIRO
(タカヒロ)
ボーカル
KENCHI
(ケンチ)
パフォーマー
  • 1979年9月28日生まれ、本名:寺辻健一郎(てらつじ けんいちろう)
  • 神奈川県横須賀市出身。血液型:O、身長180cm、体重69kg。
  • J Soul Brothersでの活動を経て、2009年EXILEに加入。
  • EXILEでの活動と並行し、俳優活動も行っている。
KEIJI
(ケイジ)
パフォーマー
  • 1980年1月21日生まれ、本名:黒木啓司(くろき けいじ)
  • 宮崎県清武町(現・宮崎市)出身。血液型:B、身長180cm、体重69kg。
  • J Soul Brothersでの活動を経て、2009年EXILEに加入。
  • EXILEでの活動と並行し、俳優活動も行っている。
TETSUYA
(テツヤ)
パフォーマー
  • 1981年2月18日生まれ、本名:土田哲也(つちだ てつや)
  • 神奈川県横須賀市出身。血液型:O、身長175cm、体重65kg。
  • J Soul Brothersでの活動を経て、2009年EXILEに加入。
  • EXILEでの活動と並行し、俳優活動も行っている。
NESMITH
(ネスミス)
ボーカル
パフォーマー
  • 1983年8月1日生まれ、本名:竜太・カリム・ネスミス(りゅうた ー )
  • 熊本県出身。血液型:O、身長181cm、体重67kg。
  • VOCAL BATTLE AUDITION 2006 ファイナリスト。
  • J Soul Brothersでの活動を経て、2009年EXILEに加入。
SHOKICHI
(ショウキチ)
ボーカル
パフォーマー
  • 1985年10月3日生まれ、本名:八木将吉(やぎ しょうきち)
  • 北海道苫小牧市出身。血液型:A、身長182cm、体重72kg。
  • VOCAL BATTLE AUDITION 2006 三次審査進出者。
  • J Soul Brothersでの活動を経て、2009年EXILEに加入。
NAOTO
(ナオト)
パフォーマー
  • 1983年8月30日生まれ、本名:片岡直人(かたおか なおと)
  • 埼玉県所沢市出身。血液型:B、身長170cm、体重63kg。
  • J Soul Brothersでの活動を経て、2009年EXILEに加入。
  • EXILEでの活動と並行し、三代目J Soul Brothersのリーダー兼パフォーマーを務めている。また俳優活動も行っている。
NAOKI
(ナオキ)
パフォーマー
  • 1984年11月10日生まれ、本名:小林直己(こばやし なおき)
  • 千葉県印西市出身。血液型:O、身長187cm、体重74kg。
  • J Soul Brothersでの活動を経て、2009年EXILEに加入。
  • EXILEでの活動と並行し、三代目J Soul Brothersのリーダー兼パフォーマーを務めている。また俳優活動も行っている。
元メンバー
人名 担当 在籍期間 備考
SHUN
(シュン)
ボーカル 2001年 - 2006年
  • 1980年1月11日生まれ、本名:清木場俊介(きよきば しゅんすけ)
  • 山口県宇部市出身。血液型:O、身長173cm、体重63kg。
  • EXILE在籍中、多数の楽曲を作詞。
  • 2006年ソロ活動移行のため脱退。

作品

シングル

  発売日 タイトル 順位
1st 2001年9月27日 Your eyes only 〜曖昧なぼくの輪郭〜
4位
2nd 2001年12月12日 Style
11位
3rd 2002年2月20日 Fly Away
18位
4th 2002年4月17日 song for you
6位
5th 2002年8月7日 Cross 〜never say die〜
13位
6th 2002年11月13日 EX-STYLE 〜Kiss You〜
6位
7th 2003年2月5日 We Will 〜あの場所で〜
16位
8th 2003年5月28日 Breezin' 〜Together〜
2位
9th 2003年7月9日 LET ME LUV U DOWN
3位
10th 2003年11月6日 Choo Choo TRAIN
2位
11th 2003年11月12日 Eternal...
7位
12th 2003年11月19日 ki・zu・na
5位
13th 2003年11月27日 O'ver
7位
14th 2004年5月12日 Carry On/運命のヒト
2位
15th 2004年6月30日 real world
1位
16th 2004年8月18日 HEART of GOLD
4位
17th 2004年12月1日 HERO
2位
18th 2005年8月24日 EXIT
2位
19th 2005年12月14日 ただ…逢いたくて
1位
20th 2006年3月1日 YES!
1位
21st 2006年12月6日 Everything
2位
22nd 2007年1月17日 Lovers Again
2位
23rd 2007年2月14日
1位
24th 2007年5月16日 SUMMER TIME LOVE
3位
25th 2007年8月29日 時の描片 〜トキノカケラ〜/24karats -type EX-
2位
26th 2007年11月21日 I Believe
3位
27th 2008年2月27日 Pure/You're my sunshine
2位
28th 2008年9月24日 The Birthday 〜Ti Amo〜
1位
29th 2008年11月26日 LAST CHRISTMAS
1位
30th 2009年4月15日 THE MONSTER 〜Someday〜
1位
31st 2009年7月22日 THE HURRICANE 〜FIREWORKS〜
1位
32nd 2009年11月11日 THE GENERATION 〜ふたつの唇〜
2位
33rd 2010年6月9日 FANTASY
1位
34th 2010年9月15日 もっと強く
1位
35th 2010年10月6日 I Wish For You
2位
36th 2011年2月9日 Each Other's Way 〜旅の途中〜
1位
37th 2011年9月14日 Rising Sun/いつかきっと…
1位
38th 2011年11月23日 あなたへ/Ooo Baby
2位
コラボレーションシングル
発売日 タイトル 順位
2005年7月20日 SCREAMGLAY
1位
2006年11月22日 WON'T BE LONG倖田來未
2位
配信シングル
発売日 タイトル
2009年2月17日 THE NEXT DOOR
2010年6月16日 One Wish

アルバム

  発売日 タイトル 順位
1st 2002年3月6日 our style
5位
2nd 2003年2月13日 Styles Of Beyond
1位
3rd 2003年12月3日 EXILE ENTERTAINMENT
1位
4th 2006年3月29日 ASIA
1位
5th 2007年3月7日 EXILE EVOLUTION
1位
6th 2007年12月12日 EXILE LOVE
1位
7th 2009年12月2日 愛すべき未来へ
1位
8th 2011年3月9日 願いの塔
1位
9th 2012年1月1日 EXILE JAPAN/Solo
1位
ベストアルバム
発売日 タイトル 順位
2005年1月1日 PERFECT BEST
1位
2008年3月26日 EXILE CATCHY BEST
1位
2008年7月23日 EXILE ENTERTAINMENT BEST
1位
2008年12月3日 EXILE BALLAD BEST
1位
その他アルバム
発売日 タイトル 順位
2003年9月10日 The other side of EX Vol.1
5位
2004年3月31日 祝ミリオン・初回アルバム3枚組 BOX SET
55位
2004年9月29日 HEART of GOLD 〜STREET FUTURE OPERA BEAT POPS〜
1位
2009年3月25日 EXILE PERFECT YEAR 2008 ULTIMATE BEST BOX
27位

参加作品

発売日 収録された作品 曲名
2003年9月25日 99% Radio Show 「Be Mine」「Believe」
2004年1月28日 EPISODE IDJ YUTAKA 「Self Belief」
2007年8月29日 24karats -type S-Sowelu 「24karats -type S-」
2007年8月29日 THE BESTDOBERMAN INC 「24karats -type D.I-」
2010年5月19日 奉祝曲 組曲「太陽の国」 「太陽の花」

映像作品

発売日 タイトル 備考
2002年3月20日 EXPV 1
PV
2003年3月5日 EXPV 2
2004年3月31日 EXPV 3
2004年9月29日 EXILE LIVE TOUR 2004 "EXILE ENTERTAINMENT"
LIVE
2006年3月29日 EXILE LIVE TOUR 2005 〜PERFECT LIVE "ASIA"〜
2007年10月17日 EXILE LIVE TOUR 2007 EXILE EVOLUTION
2009年3月18日 EXILE LIVE TOUR "EXILE PERFECT LIVE 2008"
2009年10月28日 EXILE LIVE TOUR 2009 "THE MONSTER"
2010年12月1日 EXILE LIVE TOUR 2010 FANTASY
2012年3月14日 EXILE LIVE TOUR 2011 TOWER OF WISH ~願いの塔~

書籍

発売日 タイトル 出版社
2003月3月20日 EXILE BOND OF SIX ソニー・マガジンズ
2007年3月1日 EXILE ROAD TO CHAPTER 2 第二章への道 ソニー・マガジンズ
2011年11月26日 夢の向こうの志 宝島社

ライブ

[D] … DVD化  [付D] … アルバム付属DVDに収録

出演

タイアップ

受賞歴

社会貢献

ハイチ大地震復興支援
東日本大震災復興支援
  • 日本赤十字社へ義援金を寄付。飲料水5万本を被災地へ寄贈。避難所慰問や炊き出しを行った。
  • チャリティーミサンガを販売。収益はあしなが育英会へ全額寄付し、震災遺児の支援に充てられる[5]
  • 番組でメンバーが着用した衣装をネットオークションに出品。落札金額は日本赤十字社へ全額寄付される。
  • チャリティーソング『Rising Sun』を配信。その後シングルとしてCDも発売。商品から発生するEXILE及びLDHの印税は日本赤十字社へ全額寄付される。

脚注

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外部リンク


流罪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/28 13:58 UTC 版)

(EXILE から転送)

『流浪のダンテ』

流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や離島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が離島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。現在、先進民主主義国において流罪は絶対的不定期刑に該当するとして罪刑法定主義と言う近代刑法原則の派生原理から禁止されている。

目次

中国における流刑

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

舜による追放伝説

尚書』舜典およびその孔伝(孔安国のものとされる注釈)には共工・驩兜・三苗・を辺境に追放したという伝説が載せられている。これを史実とはみなせないものの、古代中国社会に共同体からの追放刑があったことを示すとともに、後世においてこのことが流刑(日本における流罪)の根拠となる先例として用いられた事実(『魏書』源賀伝および唐律名例律4条疏)は注目される。とはいえ、古代中国社会にあった追放刑は小規模な国家群に分立して他国への逃亡がしやすくなった春秋戦国時代にはほとんど行われなくなったとみられ、後世の流刑との直接的なつながりは存在しないとされている。

流刑成立以前

秦漢以後に「遷刑」と呼ばれる刑が登場する。この刑はしばしば流刑と混同されることが多いが、実際のこの刑は社会からの隔離を意図したものであって、必ずしも遠方・辺境への移動を意味するものではなく、癩病のような伝染病の感染や親不孝などを理由として行われる場合もあった(睡虎地秦簡「法律問答」「封診式」)。また、当時は肉刑・城旦刑などが死刑の次に重い刑とされ、遷刑はそれよりも軽い刑と考えられていた。秦や漢では政治犯や廃された諸王がの地に移される事例がみられるが、これも蜀が辺境だからではなく、周囲を山で囲まれた隔離された土地であったからとみられている。前漢に入ると肉刑が廃止されたことにより、死刑と労役刑の中間にあたる刑が存在しないことになってしまった。そこで死一等を減ずる刑として登場したのが辺境に罪人を移す「徒遷刑」と呼ばれる刑が登場した。ただし、これも辺境に隔離して労役刑に服させることを目的としており、後世の流刑とは異なるニュアンスを含んでいた。また、徒遷刑は(死刑の)代替刑としての立場を崩すことなく、後世の流罪のように主刑と成り得なかった。

北魏による「流刑」の導入

北魏の太和16年(492年)、孝文帝の下で新たな律が定められ、ここで初めて後世知られるような主刑としての「流刑」が登場する。新しい律はこの年の4月に制定されたが、翌月になって孝文帝が詔によって自ら追加したのが流罪の規定であったという(『魏書』巻7下、高祖紀)。北魏では前代以来の徒遷刑が文成帝の時代に終身刑の要素を加えた代替刑「徒辺」として実施されていた[1]が、ここにおいて主刑としての流刑が登場して死刑の次に重い刑として位置づけられたのである。

その後、北魏は分裂して北斉北周となるが、北斉では労役として配流先での戌辺(兵役)と組み合わされ、北周では罪の重さによって流される距離に差異を置く規定(北周では5段階)が加えられた。両国に代わって北朝を再統一したが流罪を1つの体系の元に整理し、更に南朝を征服してその支配地域にも流罪を適用していくことになる。隋の制度では北斉・北周の制度を受け継ぎつつも、いくつかの手直しも図られた。まず、罪によって配流する距離を3段階(千里・千五百里・二千里)に整理して、また配流先での居作(兵役を含めた労役)も最高3年(徒刑における最高刑と等しい)を併せて課した。その上で一度配所に到着した流人は恩赦があっても特別なこと(流人の帰還が明記されているなど)がない限りは郷里への帰還が許されなかった。また、事情によっては居作は課すものの、配流を行わずに罪に応じた杖刑によって代替されるケースもあった(隋独自の規定である。以上、『隋書』刑法志)。北魏から隋にかけて、戸籍などが整備されて民を特定の居住地に拘束して他の地域への自由な移動が禁止される(役人や商人などにならない限りは一生故郷で過ごす)ようになった状況下で、見たことも無い他の土地へ強制的に移されることは威嚇効果としては相当のものがあった。また、本来死刑と徒刑などの労役刑との中間の刑罰にあたる肉刑の復活が困難な状況において、儒教の経典である『尚書』の故事を根拠として用いることが可能な(儒教道徳的見地から批判される可能性が低い)流刑を新たに導入することで死刑と労役刑の間の大きすぎる格差の解消をもたらす意味もあった。

唐代の流刑

続く唐代の流刑は日本の流罪にも大きな影響を与えたが、その特徴として以下の原則があったことが知られている。

  • 罪の重さによって二千里・二千五百里・三千里の距離に分けられる(当時の唐の1里は約560m)。その基準に関しては、元の居住地とする説と都(長安)であるとする説がある[2]
  • 配所にて、首枷を付けられた上で「居作」と呼ばれる強制的な労役を1年間科された。なお、三千里の配流に処せられた者のうち、特に罪が重い者は「居作」は3年間とされた。これを加流刑と称する。
  • 流人の妻妾は必ず配所に同行しなければならない。ただし、父祖・子孫は希望によった。
  • 居作の終了によって流刑は終了するが、そのまま現地の戸籍に附されてそこの民として残る人生を送ることになり、二度と元の居住地(大抵は故郷にあたる)に戻ることは許されなかった。
  • 反逆罪やそれに連座した者(死刑から死一等を減ぜられて流刑になった者を含む)を除いては、配所到着から6載後(6回目の新年を迎えた後、6年後ではないことに注意)を経た者は仕官を許される(ただし、法によらず皇帝の意向で流刑にされた場合は3載後に短縮される)。
  • 流内官品を持つ官人は「五流」と称される5つの罪(加流刑に相当する罪、反逆への連座、過失によって父祖を死傷させる罪、十悪の1つである不孝の罪、恩赦にあっても猶流刑に相当する罪)に該当しない限りは実際に流罪にはならない。流罪の場合は除名となり、官爵は剥奪されるが、居作は免除される。
  • 以上の規定にも関わらず、皇帝の判断によって流罪に相当しない者の刑が重くなって流刑にされたり、新たに法令として格に追加されたりした。その場合、五流に相当しない官人でも除名・官爵剥奪の上で配流されることがある。また、刺史や上佐(別駕・長史・司馬などの地方における上級の補佐官)に貶官(左遷)させる処分が流刑の代替として行われることもあった。

とはいえ、流刑自体が儒教経典を根拠とする刑罰であり、その規定は社会の実情どころか、律令の他の規定とも整合性に欠ける場合があったために、唐における流刑の諸原則が確定した貞観11年(637年)制定の貞観律の制定からわずか3年後には実際の配所は特定の辺境の州に限定されることになり、距離別の規定が空文化した(罪が重ければ、より辺境に流されることにはなっていたが)。また、流刑に対する恩赦は配所到着前でなければ有効とされていなかったが、皇帝が恩赦の際に流人に対する恩赦の文言を加えることで有効とされ、実際に皇帝の恩恵を示すために流人の放還(元の居住地への帰還)や量移(都に近い場所への変更)が行われていた。更に配流された官人が6載後に再度仕官が許されると言う原則は実は流刑の本質と矛盾するものであった。すなわち、役人は自由な移動を禁じた律令の規定の対象外であり、再度仕官となれば配所から離れることが可能であったからである。更に理論上では庶民も商人などのように官の特別な許可があれば移動が可能であったから、配所における居作を終えて現地の戸籍に登録された元流人がその規定を利用して配所を出る可能性もあった。こうした矛盾を解消するために元和8年(813年)に6年過ぎた流人の放還が認められ、開成4年(839年)に制定された開成詳定格によって法令として正式に規定された。もっとも、この時期になると地方政治の混乱によって配所の地方官が流人の管理を行わずに、勝手に配所を抜け出して故郷に舞い戻ったり他所に放浪したりすることが行われ、終身にわたって配所に置いておくこと自体が困難になってきたことが背景としてあった。そして、黄巣の乱以後の一層の社会的混乱によって罪人の管理が困難になると、徒刑や流刑のような執行完了までに時間がかかる刑罰が敬遠され、杖刑や死刑による対応へと移ることになった。

宋代の配流と配軍

宋代になると律令が再び整備されたものの、唐末以来の過酷な規定が残されたままであり、多くの死刑囚を生み出していた。それを緩和するために出されたのが、折杖法である。折杖法によって本来流刑にされる者は脊杖(背中打ちの刑)+在所での配役(強制労働)1年(加流刑の場合は3年、女性の場合は淳化4年(993年)以降は免除)によって代替されることになり、実際に配流されることはなくなった。代わって、従来死刑に処せられることになっていた者(通常は律本来の規定にはなく、特別法である格や勅による規定で死刑にあたる者)が皇帝の特恩によって、反対に皇帝によって配流相当とされた政治犯などがその特旨によって配流されるようになった。

宋代における配流およびその関連用語を一括する言葉として、編配と配隷という語がある(どちらも単独の刑罰を指す言葉ではないことに注意)。編配は「配流・配軍・編管」、配隷は「配流・配軍・配役」をまとめた総称にあたる。

このうち、配流が本来宋代における流刑に相当するものである。配流に先立ってまず死刑判決が出され、脊杖20回と刺面(顔に黥を施す)を行った後に皇帝に死刑判決の確認を求める奏裁を行うために、都(開封、後に臨安)に赴闕(都への護送)が行われる。そこで罪人は皇帝に謁見して皇帝より「罪一等減じる」との勅が授けられ、枢密院によって具体的な配流先が決められ(ただし、ここまでの手続は形式として整ったものであり、景徳3年(1006年)以後は冤罪を訴える者など実際に再審理の必要性があるものを除いて皇帝への謁見は省かれた)、唐代と同様に官の監視の下に首枷をはめられて労役に従事した。配流先としてもっとも代表的であったのは、沙門島である。この島は現在の山東省長島県にある長山列島の1つ廟島のこととされている。宋の建国当初は北方には契丹の勢力があり、南方には南唐呉越などが依然として存在していたためにそうした国境近くの辺境への配流は好まれず、一部で西北辺境などへの配流も行われていたものの、主としてこの島への配流が中心となった。宋の天下平定後は南方などの辺境への配流も行われることとなるが、依然として沙門島への配流がもっとも重いものとして扱われており、実際にその過酷な環境(自然環境・食糧不足・守衛の官吏や兵士からの虐待など)から命を落とすものは珍しくなく(『続資治通鑑長編』巻119・景祐3年7月辛巳条)、恩赦が出たとしても量移の対象にしかなり得なかった。なお、官人が政治的な理由で配流とされた場合には脊杖・刺面は行われず、沙門島へ送られた場合でも官による一定の保護が存在していた(数が少ないものの、配軍にされた官人に対しても脊杖・刺面は免除された)。その後、配流とされた者でも咸平元年(998年)沙門島に流す程でもないとされた雑犯者は各地の軍隊の下に送られて労役に従事し、景祐3年(1036年)には沙門島への配流者を広南路の遠悪州軍(辺境の環境の悪い地域の軍)に振り替えて沙門島へ流す人数を減らした。

一方、配軍は赴闕の後に各地の軍隊に配属され生涯にわたって兵役に就く刑罰である。必ずしも辺境に送られるものではなく、初期の頃は居住する州にある廂軍などの雑用を行う部隊に配置されることが多かった。(なお、当時は一般の兵士でも顔に刺面を行って一般人との区別を行う習慣があり、そうした意味でも軍隊は労役を行わせる場所に相応しかった)。配軍の原型は配流者の増加の対策の一環として太平興国9年(雍熙元年:984年)に窃盗で死刑に相当する者に無期限の労役としたのが起源である。それが雍熙2年(985年)になって本城軍(居住州の軍隊)での労役、すなわち配軍に変更されたのである。その後、咸平4年(1001年)になって福建・広南・江浙・荊湖の強盗・持仗(劫盗)は都から遠隔であることを理由に赴闕を行わずに五百里以上離れた軍への配軍が行われるようになった。更に天聖8年(1030年)には二千里以上離れた軍への配軍が実施される例も現れる。こうした措置の背景には凶悪犯の中には居住地の軍隊に配軍した場合、現地に住む被害者や告発者およびその関係者に被害が加えられる可能性があることを危惧したとされている。このように、11世紀前半になると配流の対象として軍隊が加えられ、配軍の対象が遠隔地に移動が加えられたことで、本来別の内容であった配流と配軍の区別がほとんど失われ、死と隣り合わせであった沙門島への配流を頂点とする序列が形成されることになった(ただし、沙門島自体が後にに奪われており、配流先からは消えることになる)。

流刑とは異なるものの、共通する部分を有する刑として配流・配軍と一括にされたものとして編管と配役がある。編管は罪を犯した者が、居住州から隣接する州、または五百里・千里などの距離が離れた州に移されて簿籍に附けて官吏の監視下に置かれる措置である。唐以前の流刑と似たような側面を有しているものの、宋の配流・配軍のような終身の労役は課されず、免除されるか有期の配役であり、当初は無期の編管や期間終了後の現地の戸籍への強制的な編入もあったものの、北宋末期には恩赦がなくても6年後には放還される(事実上刑期を6年とする)ことが制度化されていた。これは、編管の主たる目的な罪人を居住地から切り離して監視下におくことであり、遠隔地への追放や労役を目的とした流刑とは異なる要素を持った刑であったことによる。配役は前述のように軍隊を含めた役所での有期の強制労働であり、本来の流刑に対する折杖法に基づいた代替刑の1つとしても行われていた。

日本における流罪

日本では死罪に次いで重い刑であったが現在は廃止されている。

古代においては神の怒りに触れたとされた者や物を孤島に放逐して朽ち果てるに任せる事が行われていた。古い日本語では「ながすつみ[要出典]」(当時の「」という言葉には、犯罪行為そのもののみならずその結果責任として生じる刑罰をも含めて一つの事象と捉えられていた)。

律における五刑の1つであり、においては罪の重さに応じて「二千里」・「二千五百里」・「三千里」の刑(当時の唐の1里は約560m)が課せられていたが、日本の国土は唐の様に広大ではなかった為に畿内からの距離によって「近流(こんる/ごんる)」・「中流(ちゅうる)」・「遠流(おんる)」の3等級が存在した。基準としては近流300里・中流560里・遠流1500里であったと言われている。

受刑者は居住地から遠隔地への強制移住と1年間の徒罪の服役が課された(遠流対象者で特に悪質なものに対しては3年間の徒役が課された)。また妻妾は連座して強制的に同行させられるが、他の家族は希望者のみが送られた。配所への護送は季節ごとに1回行われた。配所到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田が与えられて、現地の良民として租税を課された。配所到着後は現地の住民とされた為に原則的に恩赦等による帰国もなかった。尤も、後年には流罪も含めた全ての罪人が赦免される「非常赦」がしばしば行われて帰国が許されている事例も多く存在している(『平家物語』における鹿ケ谷の陰謀鬼界ヶ島に流された藤原成経平康頼の例など)。また、女性への適用はされずに代わりに杖罪と徒罪の両方を課された。

平安時代嵯峨天皇治世期に死刑が停止されたとも言われ、死刑停止時代の最高刑は流罪が主になっている。中世以後の統一権力の力の弱い分権的な社会では流罪の替わりに追放(自己の地域からの排除)が用いられた。江戸時代には追放よりも重い刑と規定されて「遠島」(えんとう)と称されており、江戸幕府では東日本天領の流刑者を主に八丈島等の伊豆七島に流した(ロシア蝦夷地への進出を図った19世紀には蝦夷地への流刑先変更が検討されたが、松前藩の反対で中止されている)。また、南西諸島への遠島も行われていた。古くは平家物語に現れる鬼界ヶ島の例であり、江戸時代には薩摩藩政治犯を支配下に入れた琉球へ盛んに送っている(主に奄美群島沖縄諸島への例もある)。また少数ではあるが、江戸幕府町人沖縄本島へ送っている。

赦免は刑期満了の他に、本国で改めて投獄・処刑する為にもなされる。日本では主に日本周辺の島に送られるが、欧米では植民地にした海外領土(#日本国外)に送られる事もあり、国内流刑と国外流刑は刑として区別される。

日本における流罪は現行刑法が制定された明治41年(1908年)まで存在した。明治時代の流刑地は北海道で、流人は監獄に収監され、重労働を課せられた。

左遷との関係

律令制においては、罪を犯した官人を左遷する事が行われる。有名な例としては右大臣から大宰権帥に左遷された菅原道真や、藤原道長との権力争い(長徳の変)で敗れた藤原伊周内大臣→大宰権帥)・藤原隆家中納言→出雲権守)兄弟等が挙げられる。こうした例に対しても一般には「流された/流罪にされた」という表現をされる事が多いが、実際には幽閉状態とはいえ、左遷の場合には俸禄が与えられ恩赦による帰還もあり得る為に実態は流罪でも法的にはあくまでも左遷であって流罪ではない。なお、伊周・隆家は後に赦免されている(隆家は後年、病を得て大宰権帥となり刀伊の入寇を撃退している)。

流罪と文化

流罪にされる場合、暴力犯より政治犯が往々にして遠くに飛ばされる。政治犯は多くの場合文化人であり、特に古い時代は貴族等位の高い者が多かった。したがって、その様な人物が多数流される地には豊かな文化が伝えられ、栄える例が多い。日本では佐渡島等がその例に挙げられる。琉球王朝の場合、これに当たるのが八重山であり、特に波照間島が有名である。

用語

流人(るにん) 
流刑を受ける罪人。
島流し、遠島 
流刑のうち、流刑地が離島の場合をいう。
島破り、島抜け 
島から脱走すること。
赦免(しゃめん) 
刑期を終えたこと等により流刑としての罪状が解かれる(離島への流刑であれば、本土への帰還が許される)こと。「ご赦免」とも言う。
赦免状 
本土から流刑地を治める代官に届く書状で、特定の流人に対する赦免を許す旨が記された物。
赦免花 
八丈島におけるソテツの花を指す。これを見つけた流人の多くに不思議と赦免の知らせが届いたとされることからこの名がある。

西洋における流罪

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主な流刑地

日本

律令体制下の日本では、流には3つの分類があった。

アジア

ヨーロッパ

主な流人

日本

以下、時代に関わらず流罪になった著名人を列挙する。江戸時代の大藩には藩内に流刑地を持つ所もあった(例:仙台藩田代島網地島江島加賀藩越中五箇山土佐藩の白滝、薩摩藩沖永良部島)。

以下は琉球

その他

  • 会社組織において地方、特に重要ではない部署に異動させられる事を左遷と言うが、その中で特に重要性の低い部署や遠方の支店等へ異動させられた場合「島流し」と喩える事がある。

参考文献

  • 辻正博『唐宋時代刑罰制度の変遷』(京都大学学術出版会、2010年) ISBN 978-4-87698-532-6 

関連項目

脚注

  1. ^ この刑を導入することを主張した源賀がその根拠として用いたのが『尚書』舜典であり、儒教思想的な要素が加えられることで徒遷刑の性格を大きく変えるとともに引き続き正刑である流刑の根拠としても用いられ、更に「流刑(流罪)」の名称の由来になったとも考えられている(辻、2010、P26-31)。
  2. ^ 類似の措置として加害者を強制的に移住させて被害者や告発者およびその家族と接触させない「移郷」と呼ばれる措置があることから流刑の距離も居住地からの距離とする説が通説とされている。一方で、恩赦として都に近い場所に移す措置が行われる場合があり、(居住地と都が三千里以上離れているケースなど)居住地によっては更に遠方に送られてしまう可能性を指摘してあくまでも皇帝のいる都から遠隔地への放逐が流刑の目的であり、距離の基準は都であるとする異説もある。なお、この議論は畿内を基準とした日本の流罪の距離が中国と異なる仕組を導入したのか、中国の仕組を日本に当てはめたものかという問題にもつながることになる(辻、2010年、P78-88・97)。
  3. ^ 始め保元の乱に連座して土佐へ流され、帰京後太政大臣に登ったが、治承三年の政変によって再度尾張へ流された。
  4. ^ 始め長徳の変で出雲へ流されたが、のち優詔によって但馬に留め置かれた。




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