松井田城
松井田城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
松井田城 松井田城の位置 天正18年(1590年)3月28日から4月20日まで続いた。 松井田城攻撃軍の編成 約35,000人西部(追手)上杉景勝 約10,000人 東部(搦手)前田利家・前田利長 約18,000人 北部 約7,000人(松平康国・康勝 約4,000人、真田昌幸(信幸・信繁) 約3,000人) 松井田城守備軍 約2,000人(城主 大道寺政繁) 北方隊は松井田城攻略に取り掛かった。3月20日に総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ。北方隊は城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けたが、城方の必死の抵抗により攻城は遅々として進まなかった。北方隊は松井田城は包囲したまま、周辺の城塞を攻略してまわった。一方の東海道方面では山中城が半日で落城したため、予想以上に小田原包囲が早まることとなり、北方軍は秀吉から松井田城攻略の督促を受けている。焦った北方軍は攻城の勢いを増した。守将の政繁は嫡子を脱出させ、自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に廓をひとつ、またひとつと落とされ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれ、総攻撃から一か月後の4月22日に終に降伏開城した。以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった。
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