松井田城とは? わかりやすく解説

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松井田城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 01:48 UTC 版)

松井田城(まついだじょう)は、群馬県安中市松井田町高梨子(上野国碓氷郡)にあった戦国時代日本の城山城)。諏訪城小屋城霞ヶ城堅田城ともいわれる。「安中郭」が安中市指定史跡に指定されている。


  1. ^ 「安中市の文化財一覧」安中市公式HP
  2. ^ a b c d 安中氏の名前には問題がある(安中氏の項参照)。忠親・忠清・忠政・忠成の名は近世の書物上に出る名であり、戦国期の古文書類には全くみえない(『安中市史』)。また忠成は景繁と改名したというが(『日本城郭大系』)、古文書類では景繁のみしか出ない。
  3. ^ 『上野国志』
  4. ^ 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『日本史攷究』35号、2011年/『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年。
  5. ^ 『安中誌』


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松井田城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「松井田城」の解説

松井田城 松井田城の位置 天正18年1590年3月28日から4月20日まで続いた。 松井田城攻撃軍の編成35,000西部追手上杉景勝10,000東部搦手前田利家前田利長18,000北部 約7,000人(松平康国康勝 約4,000人、真田昌幸(信幸・信繁) 約3,000人) 松井田城守備軍 約2,000人(城主 大道寺政繁北方隊は松井田城攻略取り掛かった3月20日総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ北方隊は城を包囲し周辺地域放火し城塞を削るように攻撃続けたが、城方必死抵抗により攻城遅々として進まなかった。北方隊は松井田城は包囲したまま、周辺の城塞を攻略しまわった一方東海道方面では山中城半日落城したため予想以上に小田原包囲早まることとなり、北方軍秀吉から松井田城攻略督促受けている。焦った北方軍攻城勢い増した。守将の政繁は嫡子脱出させ、自らは激しく抵抗するも、連合軍猛攻前に廓をひとつ、またひとつと落とされ水の手断たれ兵糧焼かれ総攻撃から一か月後の4月22日に終に降伏開城した。以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった

※この「松井田城」の解説は、「小田原征伐」の解説の一部です。
「松井田城」を含む「小田原征伐」の記事については、「小田原征伐」の概要を参照ください。

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