真田信繁(さなだ のぶしげ) 1567~1615
◇父:真田昌幸 室:大谷刑部少輔吉継女、堀田作兵衛女、高梨内記女、豊臣秀次女 子:真田幸昌、片倉守信、三好幸信、真田之親
通称幸村。信濃・上田城主昌幸2男。上田城が徳川家康に包囲された時は、越後・上杉氏に救援を求める為、春日山城に人質として送られる。後に、豊臣秀吉の下、質として赴き近侍。秀吉没後は上田城に戻り、家康の会津征伐軍にも加わるが、石田三成が家康に反旗を返すと西軍に属して上田城籠城、東軍を苦しめた。西軍敗北後は東軍についた兄信幸の助命で、高野山に蟄居。大坂の陣で、50万石の約束で大坂方に招かれる。家康は信繁を味方に引きいれる為、信濃一国を与える条件で、叔父信尹を派して説得したが、これをきっぱり断っている。冬の陣では、"真田丸"を拠点に戦い、数倍の東軍を苦しめた。夏の陣では最後の天王寺の決戦において、家康本陣に突撃して大混乱に陥れるが、やがて力尽き、茶臼山にて戦死。多くの記録でその活躍ぶりは記され、いわゆる幸村に仕えた10勇士として、"真田十勇士"の伝説(?)をも生んだ。
真田信繁
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真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名[10]。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。官位である左衛門佐の名が呼称になる事もあり、輩行名は源二郎もしくは源次郎。
注釈
- ^ a b 『左衛門佐君伝記稿』では享年49歳と記載されており、没年齢から逆算されたもので、この説では月日は不明[1]。
- ^ a b 月日の表記はないが、幕末期に成立した真田氏の史書『真田家御事跡稿』では一説として、真田家の菩提寺である長野県 長国寺の過去帳(原本は現存せず)に享年46とあったと記されている[2]。
- ^ 『仙台真田系譜』では元亀元年2月2日生とする。『仙台真田系譜』『武辺咄聞書』は共に享年46としている[3]。
- ^ 初版は万年頼方・二階堂行憲の著。様々な版があり細部が異なる。講談の種本でもある[24]。
- ^ 後者は講談や立川文庫で用いられたものである。
- ^ 厳密には姉の村松殿と信繁の生母に関しての記録はない[32]。村松殿・信幸・信繁を同腹とするのが通説。ただし村松殿の母には遠山右馬允の娘とする説もあり[33]、信幸・信繁が同腹、長姉の村松殿は異腹とする説もある。
- ^ 長野県立歴史館編著『たたかう人びと-戦争と平和- 信濃の風土と歴史11』長野県立歴史館、2005年。
- ^ 現在の和歌山県伊都郡九度山町。近くに歴史資料館九度山・真田ミュージアムがある。配所であった真田庵は同町の善名称院であり、九度山は高野山の表参道口にあたる場所の地名であって、山があるわけではない。
- ^ 「真好白」「真好白信繁」などと署名した木村綱守や河原左京などに宛てた書状が現存している。
- ^ 『本光国師日記』には、信繁の大坂入城を以心崇伝が書状で家康側近の本多正純に知らせたことが記されている。『高野春秋』は、大助と共に入城したことが記されると共に、九度山脱出時の信繁の直卒人数を記している。『高野春秋』は、信繁の大坂入城時の引人数、または入城後の信繁の下に集まった直卒人数については300人と記すものの、『真田家譜』は150人、『真武内伝』は130人との注記を記す。また、信繁が信州・上田の旧臣たちに参戦を呼びかけたことも記されている
- ^ 『大坂御陣覚書』。5月7日、秀頼は本丸桜門まで出陣したが、その時、真田隊を含む前線諸部隊壊滅の報がもたらされ、それ以上の出陣は中止となった
- ^ この作戦立案を踏まえて大野治房が発出した“大野主馬軍令状”(福山壽久氏所蔵文書)には、豊臣方の作戦や毛利隊の早期開戦等を考証するための、より確かで希少な史料であるため下掲する。重而申遣候、敵押寄候共、ちゃうす山岡山より、主馬人数出シ候ハゝ、かならずかならず大事ニて候間、此段侍共ニ能々申付、法度ちかへ候ハゝ、則成敗可申付候、昨日之かせんも、餘ニあし長ニ出候て、不覚取候間、今日合戦一大事ニ候、主馬一人之手柄ニても惣様之まけニなり候へハ、せんなく候間、軍法堅可申付候、謹言、
五月七日
大主
猶以真田毛利申合、そつしのかつせん不可然候今日一大事、天下わけめの合戦ニて候間、ぬけかけ無之様ニ堅く堅く軍法せん用ニ候、兎角敵を引請候て、一戦およひ候ハゝ、かならずかならずりうんたるべく候 — 大野主馬軍令状 - ^ イエズス会の報告によると、馬印を掲げることよって、あたかも秀頼が戦場に居るかのごとく見せていたという。
- ^ 味方の傷ついた兵士を看病していた、との説もある。
- ^ 当時の細川忠興の書状には「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥れして居られ候を取り、手柄にも成らず候。 」とある。
- ^ 『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)
- ^ 「ふしゃくしんみょう」:仏法のために身命をささげて惜しまないこと。
- ^ この書で編集者の三木之幹らは「幸村は誤り、信仍が正しい」としているが、「信仍」は恐らく「信繁」の誤読)。
- ^ 通説では大谷吉継の娘とするが、大谷家の方の系図に表記がないため、姪または妹を養女にしたとも言う。いずれにしても名目上は吉継の娘として嫁いでいる。
- ^ 滝川一積の養女として郷喜の息子に嫁いだとも。この件は後年、寛永蒲生騒動において蒲生郷喜が告発される一因となる(『徳川実紀』寛永9年7月10日条)。
- ^ 豊臣秀次の娘が信繁に嫁いだ経緯などはわかっていない。御田姫の母とされ、大坂城落城後は身重の母は娘と共に京都の瑞龍院日秀(秀次生母)のもとに避難した[6]。
- ^ 大坂城落城の際に乱妨取りされたという[77]。
出典
- ^ 小林計一郎『戦国史料叢書 第2期2 真田史料集』 1966, p. 347-453
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- ^ 小林計一郎 1989, p. 20, 82
- ^ a b 川口素生『真田幸村は生きていた! : 日本各地の「不死伝説」の謎に迫る』PHP研究所、2016年。ISBN 9784569764894。
- ^ a b c 跡部蛮『真田幸村「英雄伝説のウソと真実」』双葉社、2015年。ISBN 9784575154658。
- ^ a b 小林計一郎 1989, p. 95
- ^ a b 小林計一郎 1989, p. 187
- ^ 小林計一郎 1989, pp. 95, 187–188
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- ^ “大坂夏の陣で無念の死…真田信繁は才覚を発揮できず|日刊ゲンダイDIGITAL”. web.archive.org (2021年4月15日). 2023年2月28日閲覧。
- ^ “家康追い詰めた真田幸村 最後の奮戦は死後の評価高めるPR活動?:日経ビジネス電子版”. web.archive.org (2022年7月5日). 2023年2月28日閲覧。
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- ^ “真田幸村は、じつは「ニート」だった!?「やばい」から日本の歴史が見えてくる!”. ダイヤモンド・オンライン (2018年9月26日). 2023年9月10日閲覧。
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- ^ 『細川家記』『薩藩旧記』『本多家記録』『寛政重修諸家譜』『元和先鋒録』『山下秘録』『三河物語』『言緒卿記』
- ^ a b 平山 2015[要ページ番号]
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- ^ a b 小林計一郎 1989, p. 149
真田信繁
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真田信繁(さなだ のぶしげ)
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「盤上のアルファ」の記事における「真田信繁(さなだ のぶしげ)」の解説
33歳、独身。年齢制限の26歳までに四段になれず、三段リーグ編入制度でのプロ棋士を目指す。
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真田信繁
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真田信繁
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大坂夏の陣での真田信繁(幸村)の活躍はまず、屏風絵に見られる。最初に黒田長政によって作成された「大坂夏の陣図屏風」(黒田屏風)に始まり、後世、版画の錦絵に描かれるなど、徳川政権下でも後世へ語り継がれた。文献では特に、江戸中期頃に書かれた「真田三代記」は信繁のみならず真田一族の名を高めるのに貢献した。天王寺合戦は江戸時代後期に書かれた島津家の伝承を集めた「薩藩旧記」で「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」、「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議したという「大久保彦左衛門覚書」(三河物語)も残っている。 また、信繁以外にも毛利勝永、大野治房らも天王寺・岡山の戦いで活躍した(『日本戦史 大坂役』)。信繁は徳川軍の中を敵中突破した一方、勝永と治房らは自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させたと言われている(『日本戦史 大坂役』)。さらに、真田隊が強行突破できたきっかけとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動きを松平隊が「浅野隊が寝返った」と思い、混乱したことでもあるとする説もある(『日本戦史 大坂役』)。 真田隊や毛利隊がどれだけ家康自身に迫ったのかは諸説あり、そのため後世の創作である軍記、歌舞伎、錦絵や再現イラスト、歴史漫画では様々な様子が描かれている。また、家康の周囲にいた人間も小栗又一、大久保彦左衛門など本によって様々である。 信繁討死についても諸説があるが、一般的には「安居神社で石畳に腰をかけているところを討たれた」と言われている。安井神社は天王寺公園・茶臼山の北にある一心寺の北に所在する。これは明治時代に当時の大日本帝国陸軍参謀本部が制定したものとされ、安井神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に際しての参謀本部の関与を示す一文が刻まれている。 信繁を討ち取った西尾宗次が属した越前松平家の文書が近年発見され、これによると、西尾は生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で休息していた信繁を討ち取ったといい、安居神社説は誤伝とみられる。
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