真田信繁とは? わかりやすく解説

真田信繁(さなだ のぶしげ) 1567~1615


真田信繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 05:17 UTC 版)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名[10]真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。官位である左衛門佐の名が呼称になる事もあり、輩行名は源二郎もしくは源次郎。


注釈

  1. ^ a b 『左衛門佐君伝記稿』では享年49歳と記載されており、没年齢から逆算されたもので、この説では月日は不明[1]
  2. ^ a b 月日の表記はないが、幕末期に成立した真田氏の史書『真田家御事跡稿』では一説として、真田家の菩提寺である長野県 長国寺の過去帳(原本は現存せず)に享年46とあったと記されている[2]
  3. ^ 『仙台真田系譜』では元亀元年2月2日生とする。『仙台真田系譜』『武辺咄聞書』は共に享年46としている[3]
  4. ^ 初版は万年頼方・二階堂行憲の著。様々な版があり細部が異なる。講談の種本でもある[24]
  5. ^ 後者は講談や立川文庫で用いられたものである。
  6. ^ 厳密には姉の村松殿と信繁の生母に関しての記録はない[32]。村松殿・信幸・信繁を同腹とするのが通説。ただし村松殿の母には遠山右馬允の娘とする説もあり[33]、信幸・信繁が同腹、長姉の村松殿は異腹とする説もある。
  7. ^ 長野県立歴史館編著『たたかう人びと-戦争と平和- 信濃の風土と歴史11』長野県立歴史館、2005年。
  8. ^ 現在の和歌山県伊都郡九度山町。近くに歴史資料館九度山・真田ミュージアムがある。配所であった真田庵は同町の善名称院であり、九度山は高野山の表参道口にあたる場所の地名であって、山があるわけではない。
  9. ^ 「真好白」「真好白信繁」などと署名した木村綱守や河原左京などに宛てた書状が現存している。
  10. ^ 『本光国師日記』には、信繁の大坂入城を以心崇伝が書状で家康側近の本多正純に知らせたことが記されている。『高野春秋』は、大助と共に入城したことが記されると共に、九度山脱出時の信繁の直卒人数を記している。『高野春秋』は、信繁の大坂入城時の引人数、または入城後の信繁の下に集まった直卒人数については300人と記すものの、『真田家譜』は150人、『真武内伝』は130人との注記を記す。また、信繁が信州・上田の旧臣たちに参戦を呼びかけたことも記されている
  11. ^ 『大坂御陣覚書』。5月7日、秀頼は本丸桜門まで出陣したが、その時、真田隊を含む前線諸部隊壊滅の報がもたらされ、それ以上の出陣は中止となった
  12. ^ この作戦立案を踏まえて大野治房が発出した“大野主馬軍令状”(福山壽久氏所蔵文書)には、豊臣方の作戦や毛利隊の早期開戦等を考証するための、より確かで希少な史料であるため下掲する。
    重而申遣候、敵押寄候共、ちゃうす山岡山より、主馬人数出シ候ハゝ、かならずかならず大事ニて候間、此段侍共ニ能々申付、法度ちかへ候ハゝ、則成敗可申付候、昨日之かせんも、餘ニあし長ニ出候て、不覚取候間、今日合戦一大事ニ候、主馬一人之手柄ニても惣様之まけニなり候へハ、せんなく候間、軍法堅可申付候、謹言、
    五月七日
    大主

    猶以真田毛利申合、そつしのかつせん不可然候今日一大事、天下わけめの合戦ニて候間、ぬけかけ無之様ニ堅く堅く軍法せん用ニ候、兎角敵を引請候て、一戦およひ候ハゝ、かならずかならずりうんたるべく候 — 大野主馬軍令状
  13. ^ イエズス会の報告によると、馬印を掲げることよって、あたかも秀頼が戦場に居るかのごとく見せていたという。
  14. ^ 味方の傷ついた兵士を看病していた、との説もある。
  15. ^ 当時の細川忠興の書状には「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥れして居られ候を取り、手柄にも成らず候。 」とある。
  16. ^ 『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)
  17. ^ 「ふしゃくしんみょう」:仏法のために身命をささげて惜しまないこと。
  18. ^ この書で編集者の三木之幹らは「幸村は誤り、信仍が正しい」としているが、「信仍」は恐らく「信繁」の誤読)。
  19. ^ 通説では大谷吉継の娘とするが、大谷家の方の系図に表記がないため、姪または妹を養女にしたとも言う。いずれにしても名目上は吉継の娘として嫁いでいる。
  20. ^ 滝川一積の養女として郷喜の息子に嫁いだとも。この件は後年、寛永蒲生騒動において蒲生郷喜が告発される一因となる(『徳川実紀』寛永9年7月10日条)。
  21. ^ 豊臣秀次の娘が信繁に嫁いだ経緯などはわかっていない。御田姫の母とされ、大坂城落城後は身重の母は娘と共に京都瑞龍院日秀(秀次生母)のもとに避難した[6]
  22. ^ 大坂城落城の際に乱妨取りされたという[77]

出典

  1. ^ 小林計一郎『戦国史料叢書 第2期2 真田史料集』 1966, p. 347-453
  2. ^ 丸島 2015, p. 204
  3. ^ 平山 2015, p. 263
  4. ^ 小林計一郎 1989, p. 20, 82
  5. ^ a b 川口素生『真田幸村は生きていた! : 日本各地の「不死伝説」の謎に迫る』PHP研究所、2016年。ISBN 9784569764894 
  6. ^ a b c 跡部蛮『真田幸村「英雄伝説のウソと真実」』双葉社、2015年。ISBN 9784575154658 
  7. ^ a b 小林計一郎 1989, p. 95
  8. ^ a b 小林計一郎 1989, p. 187
  9. ^ 小林計一郎 1989, pp. 95, 187–188
  10. ^ a b c d 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社、2015年、pp.208-215。
  11. ^ a b c 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, p. 121
  12. ^ 大坂夏の陣で無念の死…真田信繁は才覚を発揮できず|日刊ゲンダイDIGITAL”. web.archive.org (2021年4月15日). 2023年2月28日閲覧。
  13. ^ 家康追い詰めた真田幸村 最後の奮戦は死後の評価高めるPR活動?:日経ビジネス電子版”. web.archive.org (2022年7月5日). 2023年2月28日閲覧。
  14. ^ 歴史秘話ヒストリア - NHK”. 歴史秘話ヒストリア - NHK. 2023年9月10日閲覧。
  15. ^ 真田幸村は、じつは「ニート」だった!?「やばい」から日本の歴史が見えてくる!”. ダイヤモンド・オンライン (2018年9月26日). 2023年9月10日閲覧。
  16. ^ 7つの不思議 真田伝説”. 和歌山県 公式ウェブサイト. 2023年9月10日閲覧。
  17. ^ 幸村について|九度山・真田ミュージアム”. www.kudoyama-kanko.jp. 2023年9月10日閲覧。
  18. ^ (各駅停話)上田駅 ヒーロー幸村、今も昔も:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2015年9月30日). 2023年9月10日閲覧。
  19. ^ a b c 小林計一郎 1989, p. 55
  20. ^ 丸島 2016, pp. 258–259
  21. ^ 丸島 2016, p. 33,pp.260-262
  22. ^ 『真武内伝附録』『大峰院殿御事蹟稿』
  23. ^ 平山 2015, pp. 19–25.
  24. ^ 大阪市立図書館デジタルアーカイブ『物語で見る大坂の陣』
  25. ^ a b 7つの不思議?真田伝説 - 和歌山県
  26. ^ 黒川真道 編『国立国会図書館デジタルコレクション 難波戦記・上』集文館〈日本歴史文庫12〉、1912年、91頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771451/54 国立国会図書館デジタルコレクション 
  27. ^ 神田伯竜『国立国会図書館デジタルコレクション 難波戦記』博多久吉、1899年、7頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/890690/7 国立国会図書館デジタルコレクション 
  28. ^ a b c 三木, 宮田 & 牧野 1943, pp. 54–55(国立国会図書館デジタルコレクションでは38コマ(/全86コマ))
  29. ^ a b 平山優 『真田信繁- 幸村と呼ばれた男の真実-』 KADOKAWA〈角川選書563〉、2015年
  30. ^ 『御事績類典』
  31. ^ 篠原幸久 2011, pp. 851–867.
  32. ^ 小林計一郎 1989, pp.85-86
  33. ^ 小林計一郎 1989, p.212
  34. ^ a b 丸島和洋「真田弁丸の天正一〇年」(『武田氏研究』52号、2015年)
  35. ^ 寺島隆史 2015, pp. 345–364.
  36. ^ 『柳原家記録 資勝卿符案御教書等』『柳原家記録 口宣案』、村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」
  37. ^ 宮本義己「幸村と豊臣秀吉」(『別冊歴史読本』28巻19号、2003年)
  38. ^ 長野県立歴史館 編著『たたかう人びと―戦争と平和― 信濃の風土と歴史11』長野県立博物館、2005年。
  39. ^ 小林計一郎 2015, pp. 254–255
  40. ^ 『駿府記』
  41. ^ 『大坂御陣山口休庵咄』
  42. ^ 『名将言行録』
  43. ^ 千田 2015, p. 158.
  44. ^ 千田 2015, pp. 19–22.
  45. ^ 『當代記』『子爵松平定晴氏本・大坂御陣覚書』
  46. ^ 『俊藤合戦記』
  47. ^ 『慶長見聞書』
  48. ^ 『北川覚書』
  49. ^ 『大野主馬軍令状』『土佐国諸氏系図』『大坂御陣覚書』『大坂陣物語』より。
  50. ^ a b 笠谷 2007, p. 270
  51. ^ 『武徳偏年集成』
  52. ^ 『紀州家大坂御陣覚書』『元和先鋒録』『譜牒余録後編』『前田創業記』『慶長見聞書』『山本日記』『高山公実録』
  53. ^ 『笠系大成』『本多家記録』『前田創業記』『寛政重修諸家譜』『慶長見聞書』『田中文書』
  54. ^ 『細川家記』『薩藩旧記』『本多家記録』『寛政重修諸家譜』『元和先鋒録』『山下秘録』『三河物語』『言緒卿記』
  55. ^ a b 平山 2015[要ページ番号]
  56. ^ 『銕醤塵芥抄』『譜牒余録』『武邊咄聞書』『慶長見聞書』
  57. ^ 「真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見」読売新聞、2013年2月25日、2016年2月22日閲覧
  58. ^ 丸島 2015, pp. 251–252
  59. ^ 柿沼陽平『中国古代の貨幣 お金をめぐる人びとと暮らし』(吉川弘文館、2015年)
  60. ^ 岡谷 1896, p. 1327(国立国会図書館デジタルコレクションでは165コマ(/全182コマ))
  61. ^ a b 西日本新聞 2013.
  62. ^ a b 原 2017.
  63. ^ 三重県教育委員会. “刀 銘正重”. 2018年8月25日閲覧。
  64. ^ 薩藩旧記雑録。
  65. ^ 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, pp. 155–156
  66. ^ 『細川家記』
  67. ^ 『老談一言記』(新井白石
  68. ^ 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, p. 156
  69. ^ 『滋野世記』
  70. ^ ザ・AZABU 第44号”. 港区麻布地区総合支所. 2020年11月7日閲覧。
  71. ^ 小林計一郎 1989, pp. 96–97
  72. ^ 白川亨 『石田三成とその一族』 (新人物往来社、1997年)p.273-p.288
  73. ^ a b c d 小林計一郎 1989, p. 97
  74. ^ 小林計一郎 1989, pp. 96
  75. ^ 小林計一郎 1989, pp. 95, 187–188
  76. ^ 小林計一郎 1989, pp. 95, 188
  77. ^ a b 小林計一郎 1989, pp. 95, 188–189
  78. ^ 近藤精一郎「「真田十勇士」考」(小林計一郎編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年)203頁
  79. ^ 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, p. 164
  80. ^ 小林計一郎 1989, p. 151
  81. ^ a b 小林計一郎 1989, p. 149



真田信繁

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石田三成の青春」の記事における「真田信繁」の解説

真田昌幸次男。信幸自慢の弟。

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真田信繁(さなだ のぶしげ)

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盤上のアルファ」の記事における「真田信繁(さなだ のぶしげ)」の解説

33歳独身年齢制限26歳までに四段になれず、三段リーグ編入制度でのプロ棋士目指す

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真田信繁

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装甲悪鬼村正」の記事における「真田信繁」の解説

真田幸村の名で知られる武将GHQとの関わりがある。

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真田信繁

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大坂の陣」の記事における「真田信繁」の解説

大坂夏の陣での真田信繁(幸村)の活躍はまず、屏風絵見られる最初に黒田長政によって作成された「大坂夏の陣図屏風」(黒田屏風)に始まり後世版画錦絵描かれるなど、徳川政権下でも後世語り継がれた。文献では特に、江戸中期頃に書かれた「真田三代記」は信繁のみならず真田一族の名を高めるのに貢献した天王寺合戦江戸時代後期書かれ島津家伝承集めた「薩藩旧記」で「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」、「家康切腹考えるほどだった」などと記された。また家康本陣守備していた藤堂高虎一代記である高山実録にも「御旗大崩れ」と記され藤堂勢は応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無くほどなく家康本陣捨ててしまい、高虎自身も、家康安危確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻恐れ家康残して逃走した旗本衆の行動詮議したという「大久保彦左衛門覚書」(三河物語)も残っている。 また、信繁以外にも毛利勝永大野治房らも天王寺・岡山の戦い活躍した(『日本戦史 大坂役』)。信繁徳川軍の中を敵中突破した一方、勝永と治房らは自軍の数倍もの徳川軍正面から当たり、壊滅させたと言われている(『日本戦史 大坂役』)。さらに、真田隊が強行突破できたきっかけとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動き松平隊が「浅野隊が寝返った」と思い混乱したことでもあるとする説もある(『日本戦史 大坂役』)。 真田隊や毛利隊がどれだけ家康自身迫ったのかは諸説あり、そのため後世の創作である軍記歌舞伎錦絵再現イラスト歴史漫画では様々な様子描かれている。また、家康周囲にいた人間小栗又一大久保彦左衛門など本によって様々である。 信繁討死についても諸説があるが、一般的には安居神社石畳に腰をかけているところを討たれた」と言われている。安井神社天王寺公園茶臼山の北にある一心寺の北に所在する。これは明治時代当時大日本帝国陸軍参謀本部制定したものとされ、安井神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に際して参謀本部関与を示す一文刻まれている。 信繁討ち取った西尾宗次属した越前松平家文書近年発見され、これによると、西尾生玉生國魂神社周辺)と勝鬘勝鬘院周辺)の間の高台休息していた信繁討ち取ったといい、安居神社説は誤伝とみられる

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