冬の陣とは? わかりやすく解説

冬の陣

読み方:フユノジン(fuyunojin)

初演 明治5.1(東京中村座)


冬の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「冬の陣」の解説

慶長19年1614年8月方広寺大仏鐘銘問題契機として、江戸幕府豊臣氏緊張高まった豊臣側豊臣恩顧大名に参陣を呼びかけたが、輝元をはじめ呼びかけ応じた大名はいなかった。 慶長19年1614年10月11日、輝元は家康大坂城攻撃のため駿府出陣すると、本多正純家康出陣を輝元に報じ毛利氏領内での舟留め不審往来船の船改め要請した。輝元は直ち了承して舟留め船改め実行し10月24日には幕府奏者番城昌茂報告するとともに万事幕府奉行衆指図通り行動する述べた。しかし、九州から東上する船の内、どの船をどの程度の厳重さ舟留めすべきかが不明瞭であったため、輝元は駿府にいた宍戸元続神村元種対しそのこと本多正純入念に問い質し、可能であれば正純の墨付入手するように命じた10月23日家康二条城に入ると、本多正純10月24日に輝元へ奉書送り毛利氏出陣要請した11月3日、輝元は毛利秀元留守を預かる毛利元鎮椙杜元縁等に対し、秀元から出陣について申し下しがあれば留守衆の内の半分東上させる一方で椙杜元縁西元由、三沢七郎兵衛など残る半分留守居として長府在番させ、もし万が一長府維持できない変事があれば引き上げること等を命じた。さらに11月5日には、秀元領内廻船を一艘残らず周防国三田尻回航させること、船子有り次第用立てること等を命じている。 11月9日周防国岩国吉川広家は輝元の側近である井原元以上方情勢伝え、輝元の出陣促した。翌11月10日に輝元は益田元祥山田元宗に国許差配任せ11月11日出陣し周防国三田尻から海路東上したまた、11月10日徳川秀忠伏見到着すると、秀忠に従う酒井忠世土井利勝安藤重信江戸にいる秀就と秀元に出陣要請し毛利氏国許江戸両面から大坂城攻撃に加わることとなった11月14日夜、輝元は備前国児島郡下津井に、11月17日未明には摂津国兵庫到着し直ち兵庫到着本多正信・正純父子や、家康の軍に従軍する平川孫兵衛報じたまた、益田元祥山田元宗には、自身兵庫到着家康住吉着陣、秀就と秀元も近日大坂到着することを報じ不足する兵粮軍用金急ぎ送るよう求めている。さらに、輝元は従軍する家臣等黒印の掟を布告し陣中法度厳とした。 しかし、輝元は長い航海疲労からか病にかかってしまったため、井原元以家康陣中遣わし、病により軍務ままならないことを謝した家康近日中西上する秀就に大坂城攻撃委ね、輝元は国許仕置きなどをするように答え、秀就の到着急がせることを促した11月21日、輝元は次男・就隆を名代として宍戸元続と共に家康面会させ、同日夕刻には秀就へ西上督促する書状送ったまた、11月22日には留守居繁沢元氏益田元祥山田元宗に対し、秀就が到着次第帰国する報じたこの頃家康大坂城の堀の水位減少させて攻撃しやすくするために、摂津国西成郡江口に堰を築いて淀川塞き止め淀川の支流伝法川舟橋架けるよう、輝元に対して要請した11月22日要請受けた輝元は留守居繁沢元氏益田元祥山田元宗に使者送って普請必要な兵糧銀子昼夜兼行急送するように命じ11月23日には後から東上した吉川広家繁沢元景江口派遣し工事監督させた。さらに11月24日には、輝元自ら普請督するために摂津国西宮へ陣を進めた11月29日本多正純宍戸元続通じて家康意向により河内国茨田郡守口へ陣を進めるように要請したが、輝元はそのまま西宮滞陣続けたまた、京都所司代板倉勝重江口普請場乱暴狼藉禁令出すと、12月3日に輝元も現場吉川広家繁沢元景毛利元倶対し西宮他所の者と紛争狼藉に及んだ者を捕らえた事例伝えよくよく乱暴狼藉制止するよう命じた12月6日、秀就と秀元が大坂到着し茶臼山家康西宮の輝元と面会した後に大坂着陣した。秀就が到着したため、12月8日家康柳生宗矩使者として輝元に衣服等を贈って滞陣労を謝し帰国して療養することを勧めた12月10日、輝元は茶臼山家康訪ねて帰国挨拶をした後に宍戸元続伴って帰途につき、12月18日には周防国三田尻到着した。輝元は秀元の命により東上する椙杜元縁に対して三田尻での面談要請したが、元縁が病で面会応じられなかったため、12月21日に輝元は秀元が吉川広家福原広俊衝突することを戒める訓諭書状したためて元縁に与えた一方大坂に残る毛利軍その後もさほど戦闘行わないまま、12月20日には徳川方豊臣方講和結ばれ大坂冬の陣終結した

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冬の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)

大坂の陣」の記事における「冬の陣」の解説

各将の配置史料により異同がある。 城包囲時の持ち氏名東森村・中浜 本多忠朝、浅野長重真田信吉真田信政佐竹義宣上杉景勝丹羽長重堀尾忠晴戸田氏信牧野忠成 大和橋秋田実季本多康俊植村泰勝小出吉親 黒門口 松下重綱、仙石忠政酒井家次水谷勝隆小出吉英 南平野南部利直 真田丸正面 前田利常 八丁目井伊直孝松平忠直松倉重政榊原康勝桑山一直古田重治脇坂安元寺沢広高 谷町藤堂高虎 松屋町伊達政宗伊達秀宗 西南 毛利秀就徳永昌重福島忠勝 西船場 浅野長晟蜂須賀至鎮池田忠雄石川忠総戸川達安山内忠義松平忠明稲葉典通鍋島勝茂森忠政 北西中之島 山崎家治加藤貞泰一柳直盛 福島 九鬼守隆向井忠勝千賀信親小浜光隆 北今橋口 有馬直純 浜筋 立花宗茂分部光信 天神橋 本多忠政有馬豊氏 天満橋 池田利隆中川久盛加藤明成 川崎口 松平康俊、岡部長盛 京橋口 能勢頼次、関一政竹中重門別所吉治市橋長勝 東北京街道 長谷川守知本多康紀片桐且元片桐貞隆石川貞政宮城豊盛蒔田広定林武吉木下延俊花房正成花房正盛 不明 京極高知京極忠高生駒正俊松平信吉新庄直定松平康長相馬利胤稲葉紀通黒田忠之佐久間安政佐久間勝之本堂茂親山崎長徳 本営岡山 徳川秀忠柳生宗矩 茶臼山 徳川家康 その他在国 津軽信枚脇坂安治 参陣できず 島津忠恒 江戸城留守居 福島正則黒田長政加藤嘉明蜂須賀家政平野長泰最上家親

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