真田信繁 墓所・遺品

真田信繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 06:49 UTC 版)

墓所・遺品

墓所

真田信繁の墓所(正確には供養墓・供養塔)は、以下の複数が確認されている。

  • 龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市
    信繁の七女おかねの夫、または舅である石川貞清(宗林)は、竹林院を始めとする信繁の遺族を援助したことでも知られ、龍安寺に信繁夫妻の墓を建立した。この墓は鏡容池の弁天島に現存するとされるが、非公開となっている。
  • 妙心寺塔頭養徳院(京都府京都市)
    真田家系譜に「御葬地不詳御石牌京都花園妙心寺塔頭養徳院に有り」とあるが、非公開となっている。
  • 田村家墓所(宮城県白石市
    田村家出身の片倉定広(田村清顕の甥宗顕の子)に嫁いだ五女・阿昌蒲の縁で、田村家の墓所に墓が建立された。
  • 長国寺長野県長野市
    松代藩真田家の菩提寺。信繁と嫡男の幸昌の供養塔がある。
  • 孝顕寺(福井県福井市
    西尾宗次は、自家の菩提寺に首塚を建立(首塚の上に安置されていた通称「真田地蔵」は、西尾家の子孫が福井市立郷土歴史博物館へ寄贈し保存)。実際に首が埋葬されたかは不明。
  • 妙慶寺秋田県由利本荘市
    四女・御田姫(顕性院)が真田家(信繁系統)の菩提寺として建立した寺。墓はないが位牌が残されている。
  • 心眼寺(大阪府大阪市
    真田丸所在地に信繁の菩提を弔うため創建された寺。2014年の信繁四百回忌に合わせて墓碑が建立された。

また、逃亡伝説に基づいた墓所も全国に点在する。

薩摩半島頴娃の伝真田幸村の墓
  • 田原家私有林墓石(鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内の雪丸地区)
    真田幸村(伝承のまま)は大阪の陣の後、島津の軍船で鹿児島に逃れ、谷山(今の鹿児島市谷山地区)に上陸した。鹿児島では幸村は芦塚左衛門と名乗ったが、現地の者は、幸村を芦塚大左衛門、その子・真田大助幸昌を芦塚中左衛門、孫を芦塚小左衛門と区別していた。その後、豊臣秀頼を谷山においたまま、尾根伝いに揖宿郡頴娃村(今の南九州市頴娃町)に潜入し、(牧ノ内)雪丸に居を構え住んだ。その名残として墓が立てられたが、その墓には何の刻印もない。幸村は、頴娃村摺木の百姓娘との間に隠し子をもうけたが、徳川幕府の追及を逃れるため、その娘を(別府)大川の浦人に嫁がせ、生まれた子は瓢左衛門と名づけられた。その子孫は幕末になって名字帯刀を許され、真江田姓を称し、(別府)大川の真江田家・難波家の墓には六文銭が刻まれている。
  • お篭もり堂(長崎県南島原市西有家町)
    ここには、「真田幸村の墓」(伝承のまま)とするものがあり、大助幸昌の子孫とされる山田芦塚家の墓は雲仙旧山田村牧之内にある。
  • 一心院(秋田県大館市
    大坂の陣では死なずに、島津を頼って鹿児島に落ち延びたとする伝説に由来する。島津家が徳川に恭順したため、その後は各地を放浪。寛永2年(1625年)から四女御田姫の嫁ぎ先の実家佐竹家に庇護され大館に住み、寛永18年(1641年)に75歳で没したと伝えられる(嫡男大助の墓もある)。

遺品

  • 六十二間小星兜(井伊美術館所蔵) - 大坂の陣で着用していたと伝わる鎧兜[70]

注釈

  1. ^ a b 『左衛門佐君伝記稿』では享年49歳と記載されており、没年齢から逆算されたもので、この説では月日は不明[1]
  2. ^ a b 月日の表記はないが、幕末期に成立した真田氏の史書『真田家御事跡稿』では一説として、真田家の菩提寺である長野県 長国寺の過去帳(原本は現存せず)に享年46とあったと記されている[2]
  3. ^ 『仙台真田系譜』では元亀元年2月2日生とする。『仙台真田系譜』『武辺咄聞書』は共に享年46としている[3]
  4. ^ 初版は万年頼方・二階堂行憲の著。様々な版があり細部が異なる。講談の種本でもある[24]
  5. ^ 後者は講談や立川文庫で用いられたものである。
  6. ^ 厳密には姉の村松殿と信繁の生母に関しての記録はない[32]。村松殿・信幸・信繁を同腹とするのが通説。ただし村松殿の母には遠山右馬允の娘とする説もあり[33]、信幸・信繁が同腹、長姉の村松殿は異腹とする説もある。
  7. ^ 長野県立歴史館編著『たたかう人びと-戦争と平和- 信濃の風土と歴史11』長野県立歴史館、2005年。
  8. ^ 現在の和歌山県伊都郡九度山町。近くに歴史資料館九度山・真田ミュージアムがある。配所であった真田庵は同町の善名称院であり、九度山は高野山の表参道口にあたる場所の地名であって、山があるわけではない。
  9. ^ 「真好白」「真好白信繁」などと署名した木村綱守や河原左京などに宛てた書状が現存している。
  10. ^ 『本光国師日記』には、信繁の大坂入城を以心崇伝が書状で家康側近の本多正純に知らせたことが記されている。『高野春秋』は、大助と共に入城したことが記されると共に、九度山脱出時の信繁の直卒人数を記している。『高野春秋』は、信繁の大坂入城時の引人数、または入城後の信繁の下に集まった直卒人数については300人と記すものの、『真田家譜』は150人、『真武内伝』は130人との注記を記す。また、信繁が信州・上田の旧臣たちに参戦を呼びかけたことも記されている
  11. ^ 『大坂御陣覚書』。5月7日、秀頼は本丸桜門まで出陣したが、その時、真田隊を含む前線諸部隊壊滅の報がもたらされ、それ以上の出陣は中止となった
  12. ^ この作戦立案を踏まえて大野治房が発出した“大野主馬軍令状”(福山壽久氏所蔵文書)には、豊臣方の作戦や毛利隊の早期開戦等を考証するための、より確かで希少な史料であるため下掲する。
    重而申遣候、敵押寄候共、ちゃうす山岡山より、主馬人数出シ候ハゝ、かならずかならず大事ニて候間、此段侍共ニ能々申付、法度ちかへ候ハゝ、則成敗可申付候、昨日之かせんも、餘ニあし長ニ出候て、不覚取候間、今日合戦一大事ニ候、主馬一人之手柄ニても惣様之まけニなり候へハ、せんなく候間、軍法堅可申付候、謹言、
    五月七日
    大主

    猶以真田毛利申合、そつしのかつせん不可然候今日一大事、天下わけめの合戦ニて候間、ぬけかけ無之様ニ堅く堅く軍法せん用ニ候、兎角敵を引請候て、一戦およひ候ハゝ、かならずかならずりうんたるべく候 — 大野主馬軍令状
  13. ^ イエズス会の報告によると、馬印を掲げることよって、あたかも秀頼が戦場に居るかのごとく見せていたという。
  14. ^ 味方の傷ついた兵士を看病していた、との説もある。
  15. ^ 当時の細川忠興の書状には「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥れして居られ候を取り、手柄にも成らず候。 」とある。
  16. ^ 『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)
  17. ^ 「ふしゃくしんみょう」:仏法のために身命をささげて惜しまないこと。
  18. ^ この書で編集者の三木之幹らは「幸村は誤り、信仍が正しい」としているが、「信仍」は恐らく「信繁」の誤読)。
  19. ^ 通説では大谷吉継の娘とするが、大谷家の方の系図に表記がないため、姪または妹を養女にしたとも言う。いずれにしても名目上は吉継の娘として嫁いでいる。
  20. ^ 滝川一積の養女として郷喜の息子に嫁いだとも。この件は後年、寛永蒲生騒動において蒲生郷喜が告発される一因となる(『徳川実紀』寛永9年7月10日条)。
  21. ^ 豊臣秀次の娘が信繁に嫁いだ経緯などはわかっていない。御田姫の母とされ、大坂城落城後は身重の母は娘と共に京都瑞龍院日秀(秀次生母)のもとに避難した[6]
  22. ^ 大坂城落城の際に乱妨取りされたという[77]

出典

  1. ^ 小林計一郎『戦国史料叢書 第2期2 真田史料集』 1966, p. 347-453
  2. ^ 丸島 2015, p. 204
  3. ^ 平山 2015, p. 263
  4. ^ 小林計一郎 1989, p. 20, 82
  5. ^ a b 川口素生『真田幸村は生きていた! : 日本各地の「不死伝説」の謎に迫る』PHP研究所、2016年。ISBN 9784569764894 
  6. ^ a b c 跡部蛮『真田幸村「英雄伝説のウソと真実」』双葉社、2015年。ISBN 9784575154658 
  7. ^ a b 小林計一郎 1989, p. 95
  8. ^ a b 小林計一郎 1989, p. 187
  9. ^ 小林計一郎 1989, pp. 95, 187–188
  10. ^ a b c d 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社、2015年、pp.208-215。
  11. ^ a b c 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, p. 121
  12. ^ 大坂夏の陣で無念の死…真田信繁は才覚を発揮できず|日刊ゲンダイDIGITAL”. web.archive.org (2021年4月15日). 2023年2月28日閲覧。
  13. ^ 家康追い詰めた真田幸村 最後の奮戦は死後の評価高めるPR活動?:日経ビジネス電子版”. web.archive.org (2022年7月5日). 2023年2月28日閲覧。
  14. ^ 歴史秘話ヒストリア - NHK”. 歴史秘話ヒストリア - NHK. 2023年9月10日閲覧。
  15. ^ 真田幸村は、じつは「ニート」だった!?「やばい」から日本の歴史が見えてくる!”. ダイヤモンド・オンライン (2018年9月26日). 2023年9月10日閲覧。
  16. ^ 7つの不思議 真田伝説”. 和歌山県 公式ウェブサイト. 2023年9月10日閲覧。
  17. ^ 幸村について|九度山・真田ミュージアム”. www.kudoyama-kanko.jp. 2023年9月10日閲覧。
  18. ^ (各駅停話)上田駅 ヒーロー幸村、今も昔も:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2015年9月30日). 2023年9月10日閲覧。
  19. ^ a b c 小林計一郎 1989, p. 55
  20. ^ 丸島 2016, pp. 258–259
  21. ^ 丸島 2016, p. 33,pp.260-262
  22. ^ 『真武内伝附録』『大峰院殿御事蹟稿』
  23. ^ 平山 2015, pp. 19–25.
  24. ^ 大阪市立図書館デジタルアーカイブ『物語で見る大坂の陣』
  25. ^ a b 7つの不思議?真田伝説 - 和歌山県
  26. ^ 黒川真道 編『国立国会図書館デジタルコレクション 難波戦記・上』集文館〈日本歴史文庫12〉、1912年、91頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771451/54 国立国会図書館デジタルコレクション 
  27. ^ 神田伯竜『国立国会図書館デジタルコレクション 難波戦記』博多久吉、1899年、7頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/890690/7 国立国会図書館デジタルコレクション 
  28. ^ a b c 三木, 宮田 & 牧野 1943, pp. 54–55(国立国会図書館デジタルコレクションでは38コマ(/全86コマ))
  29. ^ a b 平山優 『真田信繁- 幸村と呼ばれた男の真実-』 KADOKAWA〈角川選書563〉、2015年
  30. ^ 『御事績類典』
  31. ^ 篠原幸久 2011, pp. 851–867.
  32. ^ 小林計一郎 1989, pp.85-86
  33. ^ 小林計一郎 1989, p.212
  34. ^ a b 丸島和洋「真田弁丸の天正一〇年」(『武田氏研究』52号、2015年)
  35. ^ 寺島隆史 2015, pp. 345–364.
  36. ^ 『柳原家記録 資勝卿符案御教書等』『柳原家記録 口宣案』、村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」
  37. ^ 宮本義己「幸村と豊臣秀吉」(『別冊歴史読本』28巻19号、2003年)
  38. ^ 長野県立歴史館 編著『たたかう人びと―戦争と平和― 信濃の風土と歴史11』長野県立博物館、2005年。
  39. ^ 小林計一郎 2015, pp. 254–255
  40. ^ 『駿府記』
  41. ^ 『大坂御陣山口休庵咄』
  42. ^ 『名将言行録』
  43. ^ 千田 2015, p. 158.
  44. ^ 千田 2015, pp. 19–22.
  45. ^ 『當代記』『子爵松平定晴氏本・大坂御陣覚書』
  46. ^ 『俊藤合戦記』
  47. ^ 『慶長見聞書』
  48. ^ 『北川覚書』
  49. ^ 『大野主馬軍令状』『土佐国諸氏系図』『大坂御陣覚書』『大坂陣物語』より。
  50. ^ a b 笠谷 2007, p. 270
  51. ^ 『武徳偏年集成』
  52. ^ 『紀州家大坂御陣覚書』『元和先鋒録』『譜牒余録後編』『前田創業記』『慶長見聞書』『山本日記』『高山公実録』
  53. ^ 『笠系大成』『本多家記録』『前田創業記』『寛政重修諸家譜』『慶長見聞書』『田中文書』
  54. ^ 『細川家記』『薩藩旧記』『本多家記録』『寛政重修諸家譜』『元和先鋒録』『山下秘録』『三河物語』『言緒卿記』
  55. ^ a b 平山 2015[要ページ番号]
  56. ^ 『銕醤塵芥抄』『譜牒余録』『武邊咄聞書』『慶長見聞書』
  57. ^ 「真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見」読売新聞、2013年2月25日、2016年2月22日閲覧
  58. ^ 丸島 2015, pp. 251–252
  59. ^ 柿沼陽平『中国古代の貨幣 お金をめぐる人びとと暮らし』(吉川弘文館、2015年)
  60. ^ 岡谷 1896, p. 1327(国立国会図書館デジタルコレクションでは165コマ(/全182コマ))
  61. ^ a b 西日本新聞 2013.
  62. ^ a b 原 2017.
  63. ^ 三重県教育委員会. “刀 銘正重”. 2018年8月25日閲覧。
  64. ^ 薩藩旧記雑録。
  65. ^ 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, pp. 155–156
  66. ^ 『細川家記』
  67. ^ 『老談一言記』(新井白石
  68. ^ 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, p. 156
  69. ^ 『滋野世記』
  70. ^ ザ・AZABU 第44号”. 港区麻布地区総合支所. 2020年11月7日閲覧。
  71. ^ 小林計一郎 1989, pp. 96–97
  72. ^ 白川亨 『石田三成とその一族』 (新人物往来社、1997年)p.273-p.288
  73. ^ a b c d 小林計一郎 1989, p. 97
  74. ^ 小林計一郎 1989, pp. 96
  75. ^ 小林計一郎 1989, pp. 95, 187–188
  76. ^ 小林計一郎 1989, pp. 95, 188
  77. ^ a b 小林計一郎 1989, pp. 95, 188–189
  78. ^ 近藤精一郎「「真田十勇士」考」(小林計一郎編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年)203頁
  79. ^ 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 2015, p. 164
  80. ^ 小林計一郎 1989, p. 151
  81. ^ a b 小林計一郎 1989, p. 149






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