徳川政権下とは? わかりやすく解説

徳川政権下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:20 UTC 版)

仁賀保挙誠」の記事における「徳川政権下」の解説

常陸武田移封になった挙誠は江戸屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻り一軍として出兵翌夏の陣では淀城守備務めた元和2年1616年)に伏見城番、元和9年1623年)には大坂城守衛務めた時の老中土井利勝家臣鮭延秀綱という人物居た。秀綱は元々は最上義光重臣であり、最上騒動絡んで土井家御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問答え関ヶ原の戦い時の挙誠の勇戦振り語った。これに感銘受けた利勝の推挙により、元和9年1623年10月18日、挙誠は旧領仁賀保所領与えられ転封になったこの際分家打越氏にも領土内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物700与えている。分家であろうかと考えられる仁賀保郷に復帰し越城入った翌年寛永元年1624年2月14日死去享年65(『寛政譜』の没年誤り)。菩提寺にかほ市院内禅林寺13回忌次男誠政と三男誠次が立てた五輪塔墓がある。同市象潟蚶満寺にも墓があり、当初はこちらに埋葬されたとされている。東京都三田禅林寺末寺として同法名からとった寺の正山寺がある。 死後仁賀保家は挙誠の遺言により、3家に分割された。しかし長男蔵人良俊と次男誠政、三男誠次は異母兄弟であり、良俊と誠政以下の間に相続争い起こったが、柳生宗矩裁定により遺言どおりに分割されることが決まった家督長男の良俊が7,000石で継ぎ次男の誠政に2,000石、三男次に1,000石の所領分与された。次男家はニ千石家、三男家は千石家と呼ばれた。良俊は仁賀保陣屋拠点移し二千石家と千石家の政務もこの陣屋行われた宗家交代寄合として参勤交代をしており(ただし、良俊の在世中には交代寄合明確に制度化されていなかった)、『梅津政景日記』などによれば秋田久保田藩佐竹氏とも頻繁に交流していたようである。

※この「徳川政権下」の解説は、「仁賀保挙誠」の解説の一部です。
「徳川政権下」を含む「仁賀保挙誠」の記事については、「仁賀保挙誠」の概要を参照ください。

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