徳川政権下
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常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。 時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。これに感銘を受けた利勝の推挙により、元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。 仁賀保郷に復帰し塩越城に入った翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。菩提寺はにかほ市院内の禅林寺。13回忌に次男誠政と三男誠次が立てた五輪塔墓がある。同市象潟の蚶満寺にも墓があり、当初はこちらに埋葬されたとされている。東京都三田に禅林寺の末寺として同法名からとった寺の正山寺がある。 死後、仁賀保家は挙誠の遺言により、3家に分割された。しかし長男の蔵人良俊と次男誠政、三男誠次は異母兄弟であり、良俊と誠政以下の間に相続争いが起こったが、柳生宗矩の裁定により遺言どおりに分割されることが決まった。家督は長男の良俊が7,000石で継ぎ、次男の誠政に2,000石、三男誠次に1,000石の所領が分与された。次男家はニ千石家、三男家は千石家と呼ばれた。良俊は仁賀保陣屋に拠点を移し、二千石家と千石家の政務もこの陣屋で行われた。宗家は交代寄合として参勤交代をしており(ただし、良俊の在世中には交代寄合は明確には制度化されていなかった)、『梅津政景日記』などによれば、秋田久保田藩の佐竹氏とも頻繁に交流していたようである。
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