屏風絵
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先述のように室町時代には水墨画や極彩色の屏風絵が多く描かれるようになった。さらに安土桃山時代から江戸時代にかけて、城郭には必ずといっていいほど屏風が置かれ、それによって屏風絵は芸術としてその地位を高めていった。その時代の有名な絵師としては、狩野永徳らが挙げられる。 日中の屏風絵は西欧に渡ったり、影響を与えたりした。戦国時代から江戸時代初期に行われた南蛮貿易を通じて海外に渡った日本の屏風絵は、ポルトガル語やスペイン語で「ビオンボ」(BIOMBO)と呼ばれた。作者は確定していないが、ノアの方舟伝説を日本風に描いた「大洪水図屏風」も制作された(メキシコのソウマヤ美術館所蔵)。また中国から西欧へ輸出された屏風は「コロマンデル屏風」と呼ばれ、西洋画を嵌め込んで使われたり、欧州やその植民地で屏風絵が制作されたりした。
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屏風絵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 02:39 UTC 版)
2014年(平成26年)、山車が繰り出す足助まつりの様子を三州足助屋敷の屏風に描いた。同年11月、岡崎城下町屏風画展を岡崎信用金庫資料館で開催。徐々に屏風制作が仕事の中心となる。 2015年(平成27年)秋、三河一向一揆の様子を描いた八曲の屏風絵を半年かけて完成させた。 2016年(平成28年)7月1日、岡崎市は市制100年を迎える。柄澤は市制施行当時の様子を再現しようと屏風絵の制作に着手。2018年(平成30年)春、「大正5年岡崎俯瞰図屏風」が完成。岡崎信用金庫資料館で展覧会を開催。 2018年(平成30年)、太平記の場面を描いた「足助次郎重範公屛風」を高さ1.7メートル、幅6.4メートルの屛風絵を発表。また、朝鮮通信使と矢作川から伝馬通りへの町並みを描いた絵を発表した。 2020年(令和2年)4月、三州足助屋敷で、昭和30年ごろの足助の町並みをテーマにした屛風絵の制作に着手。作品は八曲一隻で高さ1.7メートル、幅6.4メートル。5月から6月にかけて制作の様子が公開された。
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