西欧へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 18:39 UTC 版)
「ラッバーン・バール・サウマ」の記事における「西欧へ」の解説
サウマたちはナポリからローマに向かうが、教皇ホノリウス4世は4月3日に没しており、次の教皇はまだ選出されていなかった。代わりにサン・ピエトロ大聖堂で枢機卿たちと面会し、ここで枢機卿たちから多くの質問を受けた。サウマはネストリウス派の総本山、自らの地位、モンゴル帝国におけるキリスト教の位置付け、ネストリウス派の教義について淀みなく返答し、枢機卿たちを驚かせた。サウマはサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などのローマ内の寺院、聖遺物を礼拝したが、軍事同盟についての明確な返答は得られなかった。 ローマを出発したサウマたちはトスカーナを経由してジェノヴァ共和国を訪れ、ドージェ(統領)をはじめとするジェノヴァ市民から歓迎を受けた。この時にサウマはジェノヴァで実施されている選挙制に驚きと関心を示した。ジェノヴァを出た一行は北に進み、ロンバルディア地方からアルプス山脈を越えてパリを目指した。 パリに到着した一行は、フランス王フィリップ4世から盛大な歓迎を受ける。パリの宮殿が一行の宿舎として提供され、フィリップ4世から多くの贈物を受け取った。サウマはパリ内の寺院、聖遺骨を見学し、第4回十字軍の際にフランスがコンスタンティノープルから持ち帰った聖遺物をフィリップ4世から披露される。フィリップ4世から返礼の使節の派遣が約束され、金品と衣服が送られた。 当時フランス南西部のガスコーニュ地方はイングランド王国の支配下にあり、サウマはイングランド王エドワード1世が滞在していたガスコーニュの中心都市ボルドーに向かう。一行はパリを出て20日間の旅の後にボルドーに到着し、エドワード1世とボルドー市民から歓待を受けた。サウマはエドワード1世の要望に応じて、ネストリウス派の方式に従った聖餐を行った。エドワード1世はイルハン朝に対して好意的な態度を示したうえで、一向に贈物と路銀を与えたが、同盟の締結に対しての返答は無かった。 ボルドーからジェノヴァに引き換えした一行は、1287年から1288年にかけての冬の時期をジェノヴァの著名な資産家の下で過ごした。サウマはジェノヴァで、ドイツからの帰国の途にあったローマ教会の巡回大司教と対面し、新教皇の選出を待ち望んでいることを伝えた。巡回大司教はローマに戻り、新たに選出された教皇ニコラウス4世(巡回大司教がローマに帰国する前、1288年2月20日にニコラウス4世が新教皇に選出されていた)にサウマのことを報告し、ニコラウス4世はサウマをローマに招いた。 15日の旅の後に一行はローマに着き、サウマは教皇から手厚い歓迎を受けた。サウマたちはバチカン滞在中に復活祭にまつわる式典を見学、そして時には式典に参列した。ニコラウス4世からサウマとヤバラーハーに贈物が渡され、ニコラウス4世はヤバラーハーをネストリウス派の総主教、サウマを巡回大主教に任命した。さらに旅費とアルグンへの贈物、聖遺物が進呈され、ニコラウス4世はサウマを抱擁して接吻し、別れを告げた。サウマは教皇からの祝福に感謝するが、使節の目的である軍事同盟に関する回答は得られなかった。 1288年にサウマ一行は地中海とコンスタンティノープルを経てバグダードに帰国し、ヨーロッパの君主たちから託された多くの書簡と贈物を持ち帰った。
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