アルクロフェナク
分子式: | C11H11ClO3 |
その他の名称: | メルバン、アルクロフェナック、Mervan、W 7320、Alclofenac、4-(Allyloxy)-3-chlorobenzeneacetic acid、アロピジン、エピナール、アルグン、メジフェナック、Zumaril、ネオステン、プリナールギン、ネオストン、Alclophenac、ロイフェナック、ズマリル、Neosten、Prinalgin、Neoston、Reufenac、Allopydin、Medifenac、Epinal、Argun、(4-Allyloxy-3-chlorophenyl)acetic acid、アルクロフェナク、3-Chloro-4-(allyloxy)benzeneacetic acid |
体系名: | 3-クロロ-4-(2-プロペニルオキシ)ベンゼン酢酸、4-(アリルオキシ)-3-クロロベンゼン酢酸、(4-アリルオキシ-3-クロロフェニル)酢酸、3-クロロ-4-(アリルオキシ)ベンゼン酢酸 |
アルグン
アルグン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 10:55 UTC 版)
アルグン(ارغون خان Arγun, Arghun, 1258年? - 1291年3月10日[1])は、イルハン朝の第4代君主(ハン、在位:1284年8月11日 - 1291年3月10日)。
注釈
- ^ オイラト部族出身。オイラト首長家のクドカ・ベキの親族で、アバカの臨終に立ち会ったテンギズ・キュレゲンの娘。テンギズはグユクの皇女を娶りクトルグを儲けたため、彼女はグユクの外孫にあたる。
- ^ ベスト部族出身のイラン駐留軍司令バイジュ・ノヤンの孫スラミシュの娘。クトルク・ハトゥンの死後、その地位を受け継ぐ。
- ^ ケレイト部族出身。祖父フレグの大ハトゥンドクズ・ハトゥンの兄弟サリジャの娘で、オン・ハンの曾孫にあたる。
- ^ ルーム・セルジューク朝の第14代君主スルターン・クルチ・アルスラーン4世の娘。
- ^ バヤウト部族の有力部将ノカイ・ヤルグチの姪。父アバカに最も寵愛されたの正妃。大ブルガン・ハトゥンとも。
- ^ コンギラト首長家当主デイ・セチェンの遠縁アバタイ・ノヤン(ヒンドゥスターン・カシュミール鎮守府軍中軍千戸長)の息子ウトマンの娘。父アバカの正妃ブルガン・ハトゥンと同名異人。彼女の死後その地位を受け継ぐ。アルグンの死後は弟ゲイハトゥが受継ぎ、ゲイハトゥの三男チン・プーラードを産む。
- ^ コンギラト部族出身。父アバカの側室のひとりで王女ユル・クトルグ、ノカイを産む。アバカの正妃ミリタイ・ハトゥン亡き後その地位を継承する。後にテグデルに受け継がれ、テグデルの大ハトゥン位を最後に継いで、その死後はアルグンの妃となった。
出典
アルグン (1284–1291)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)
「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「アルグン (1284–1291)」の解説
詳細は「アルグン」を参照 アバカは1282年に逝去し、ハーンの地位はイスラム教に改宗していた彼の弟テグデルに速やかに引き継がれた。テグデルは西欧との同盟を模索していたアバカの方針を翻し、その代わりに、マムルーク朝のスルタン、カラーウーンに同盟を求めた。カラーウーンはこの頃シリアへの進撃を続け、1285年に聖ヨハネ騎士団のマルガット城、1287年にラタキア、1289年にトリポリ伯国を占領していた。しかし、テグデルのイスラム傾倒主義は支持が得られず、1284年に仏教徒でアバカの長男のアルグンが大ハーンのクビライの支持を取り付けて反乱を起こし、テグデルを処刑した。それから、Arghunは西欧との同盟の意向を復活させて、複数の使節を欧州各国へ派遣した。 アルグンの最初の使節は、クビライ・ハンの西洋天文学部の長でネストリウス派の科学者イーサ・ケルメルチ(英語版)が送られた。ケルメルチは1285年に教皇ホノリウス4世に謁見し、サラセン人 (イスラム教徒) を 「追い出して」、 「偽りの地 (すなわち、エジプト)」を西欧人と分かち合おうと申し出た。第2の (且つ、恐らく最も有名な) 使節は、高齢の聖職者ラッバーン・バール・サウマであり、彼は当時としては珍しい中国からエルサレムまでという巡礼の最中で、イルハン朝に滞在していた。 バール・サウマと後のブスカレッロ・デ・ギゾルフィ(英語版)のような他の使節を通して、アルグンは、もしエルサレムが占領できた際には彼自身が洗礼を受け、キリスト教徒にエルサレムを返還するだろうと欧州の君主らに約束した。バール・サウマは欧州の各国君主によって暖かく歓迎されたが、西欧諸国の十字軍や聖地奪還に対する関心は失われつつあり、同盟関係を構築する任務はついに実を結ぶことは無かった。イングランドは外交代表として20年前のエドワード1世の十字軍の一員として従軍したジェフリー・オブ・ラングリー(英語版)を送ることによって応え、1291年、イングランド大使としてモンゴルの宮廷に送られた。
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