第4代総督アルグンの時期
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「阿母河等処行尚書省」の記事における「第4代総督アルグンの時期」の解説
クルクズが裁判によって処刑されると、アルグンはオゴデイ死後に国政を代行していたドレゲネによって新たなイラン総督に任じられた。1243年/1244年、イランに到着したアルグンは従来のイラン総督府の直轄地域であったホラーサーン、マーザンダランには代理人を残し、自らはアゼルバイジャン地方のタブリーズに赴いてイラン方面タンマチが開拓した新領土の統治に尽力した。アルグンの到着に対してルーム、シャーム、アレッポのスルタンたちは庇護を求め、アルグンは使者を派遣してこれらの要請に応えた。1246年にグユクの即位式が行われると、アルグンはイラン一帯の有力者を誘ってカラコルムに向い、最終的には多数の西方出身の有力者がグユクの即位式に参列することとなった。 グユクが西方親征のためにエルジギデイを派遣してルーム等の統治権を委ねると、それと同時にアルグンもイラク、アゼルバイジャン方面を委付された。この命令は、西方親征の実施にあたってアルグンが後方支援を司ることを念頭においた措置であったと考えられている。1247年、ナイマン部出身のモンケ・ボラトなる者がグユクの重臣で同じナイマン出身のカダク・ノヤンに取りいってアルグンを告発させるという事件が起こった。事態の深刻さを知ったアルグンは急ぎカラコルムに向ったが、道中のタラスでグユクの急死を知った。そこで会ったエルジギデイの要請でアルグンは再びイランに戻ることにしたが、グユクの急死によってイラン方面の統治は再び揺らぎつつあった。 1年後の1249年夏にアルグンは再びカラコルムに赴き、カラコルムでの裁判によって潔白が証明され、アルグンは勝訴を得た。しかし、帰路のアルマリクにてアルグンがチャガタイ・ウルス君主イェス・モンケと面会している時、今度はモンケが新たなカーンとして選ばれ、即位式が行われるとの情報がもたらされた。そこでアルグンは再びカラコルムに向かい、1252年5月2日に新皇帝モンケに面会したアルグンは改めてイラン総督の地位を承認された。また、イラン統治の現況確認と同時にヤラワチがトランスオクシアナで実施したコプチュル税をイランでも導入することも決められた。 また、アルグンのイラン総督任命について、『元史』は「阿児渾(アルグン)を以て阿母河等処行尚書省事に充て、法合魯丁(ファフルッディーン)・匿只馬丁(ナジュムッディーン)に之を佐しむ」と表現しているが、これをモンケ即位年(1251年)のこととするのは誤りで、アルグンのイラン総督就任は1252年のことである。なお、「行尚書省」という名称はモンゴルの行政機関を漢人官僚が一方的に名付けたものに過ぎず、中華王朝伝統の官僚機構とは全く関係が無い。 アルグンは1年以上カラコルムに滞在した後、1253年8月にイランに向って出発した。イランに到着したアルグンはモンケより得た勅令をたてに官僚から誓紙を提出させ、コプチュル税の導入準備を始めた。その後、1255年にはフレグ率いる西アジア遠征軍をキシュで迎えて共にアム河を渡り、これ以後イラン総督府はフレグの統制下に入ることとなった。しかし、1260年にモンケが急死し、カーンの地位を巡ってクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、フレグはイランの地で自立することを選んだ(フレグ・ウルスの建国)。フレグの統制下に入った時点で実質的には解散されたも同然のイラン総督府は、東方の燕京等処行尚書省が大元ウルスに吸収されたように、これ以後完全にフレグ・ウルスに吸収・併合されることとなった。
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