タンマチとは? わかりやすく解説

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反町

読み方:タンマチ(tanmachi)

所在 岩手県一関市


反町

読み方:タンマチ(tanmachi)

所在 神奈川県横浜市神奈川区

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

反町

読み方:タンマチ(tanmachi)

所在 神奈川県(東京急行電鉄東横線)

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タンマチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)

タンマチモンゴル語: Tammači)とは、第2代皇帝オゴデイの治世に編成・派遣されたモンゴル帝国の軍団の1つ。モンゴル本土千人隊から抽出されたモンゴル兵と征服地において現地徴発された兵によって構成され、モンゴル帝国の征服戦争において前鋒軍としての役割を担い、征服戦争後は辺境に鎮戍した。前鋒軍辺境鎮戍軍とも意訳される。


注釈

  1. ^ モンゴル史研究者の村岡倫はタンマチを巡る議論について「国内外で数多くの研究がなされてきたが、松田孝一の研究によって、ほぼ議論は決着を見たと言ってよい」と評する(村岡2011,1頁)
  2. ^ モンゴル史研究者の村岡倫はタンマチを巡る議論が「松田孝一の研究によってほぼ決着を見た」とした上で、「タンマチの創設」がオゴデイ時代に始まるものではなくチンギス・カン時代に既に策定されていたものであったことを紹介している(村岡2011,1頁)
  3. ^ ただし、『元史』巻99兵志2,右都威衛の條などには「国初、ムカリは太祖(チンギス・カン)の命を奉じて……アルチャルら五人に探馬赤軍を領せしめた」とあり、あたかもチンギス・カンの時代よりムカリ軍の中に「タンマチ」という集団がいるかのように記される。しかし、もう一方の当事者たるムカリの列伝には「前鋒」としか記されておらず、この記述はオゴデイ時代以後にタンマチ指揮官とされたことを遡って記したに過ぎないのではないかと考えられる(松田1996,161-163 頁)。
  4. ^ 『モンゴル秘史』続集巻2,274節はオゴデイ・カアンによる西アジアへのチョルマグン派遣を記した後、現ロシア方面へのスブタイ派遣、遼東・高麗方面のジャライルタイ派遣を記す。しかし、この節では本来フレグの功績であるはずのバグダード攻略をチョルマグンの功績にしたり、本来はモンケの治世のこととなるジャライルタイ派遣をオゴデイの治世のこととするなど、人物や年代の混同が激しく、到底史実とは認められない内容となっている(村上1976,328-329頁)
  5. ^ 『元史』などでウヤル以外にサリクタイの高麗遠征に参加したことが確認される人物は耶律薛闍・移剌買奴・王栄祖ら(いずれも『元史』巻149に親の列伝あり)がおり、これらは皆かつてムカリの下で戦っていた契丹人将軍であった(松田1992,105-107頁)。
  6. ^ このような状況の変化を指して「モンゴル帝国の分裂」と称することもあるが、杉山正明はそもそもモンゴル帝国は建国当初から複数のウルスの連合体なのであって、このような理解は妥当でないと指摘する。杉山正明は帝位継承戦争以後のモンゴル帝国を、大小のウルスが連合し、その上にただ一人のカアンが立つ、一種の「世界連邦」になったと述べる(杉山2008,159-161頁)。
  7. ^ アナトリアへの侵攻時には、チョルマグンは「半身不随」となっていたためタンマチの指揮権はバイジュ・ノヤンに委ねられていた(井谷1988,133-134頁)。このアナトリア侵攻においてタンマチは中部アナトリアのスィヴァスとカイセリまで進出している(井谷1988,131-137頁)。
  8. ^ なお、バイジュの処刑は『集史』「フレグ・ハン紀」に全く記載がないが、1259年のシリア遠征開始直後から名前が見られなくなることから、この頃バイジュの処刑が行われたと考えられている(志茂1995,101-102頁)。
  9. ^ 特に、ジョチ・ウルス第3代君主ベルケの時代にはアゼルバイジャン方面の支配権を巡ってジョチ・ウルスとフレグ・ウルスは激しく争った。しかし、赤坂恒明はジョチ・ウルスとフレグ・ウルスが常に対立状態にあったかのように論じる先行研究を批判し、本当に両者の対立が深刻であったのは1250年代〜1260年代のベルケの治世と、1280〜1290年代の4王統治期に限られる、と指摘している(赤坂2005,167-169頁)
  10. ^ 本田実信はガザン・カンの改革について「モンゴル人君主ガザン・ハンとイラン人宰相ラシード・ウッディーンとの合作であるこの改革政治は、法秩序の確立・軍事制度の改正・財政の整頓によって中央集権の実を挙げようとしたものである」と評している(本田1991,頁)
  11. ^ 『集史』「タタル部族志」には「[かつて]二万人隊の軍隊をヒンドスタンの辺境に派遣し、クンドゥーズやパクラーソやバダフシャン地方に駐屯させていた。彼等の万人隊長[職]をモンゲトゥという名の者に与えていた。彼が亡くなると万人隊長[職]フクトゥルという名の者に与えた。彼もまた亡くなると、[モンケは]このサリ・ノヤンをフクトゥルの代りにその二万人隊の軍隊の万人隊長とするため派遣した」とあって、ヒンドスタン(インド)方面のタンマチが2つの万人隊からなっていたこと、この万人隊の隊長はモンゲトゥ→フクトゥル→サリ・ノヤンの順番で継承されていたことが確認される
  12. ^ サリ・ノヤンの最後については『集史』に記載がなく、『ワッサーフ史』にのみその経緯が伝えられている(川本2015,9頁)
  13. ^ 「カラ」はモンゴル語で「黒色」を意味する単語である。「-unas」の意味については「匈奴」の音訳であり、「qaraunas」は「黒匈奴」を意味する呼称とする説がある(志茂1995,91頁)
  14. ^ 「ホラーサーンカラウナス万人隊」の正確な起源は不明であるが、『集史』「アフマド紀」は1282年時のアルグンの動向を記して「[諸王アルグンが]マーザンダラーンに着いた時……[アルグンは]二万の軍隊と共にアム河河畔の守備にあたっていたヒンドゥ・ノヤンを召還し、彼等に次のように言った……」とあり、少なくともアバカ没時にはアム河河畔に2万の「ホラーサーンカラウナス万人隊」が存在したことが確認される(志茂1995,51頁)
  15. ^ 「親衛カラウナス万人隊」の歴代隊長はほとんどが異なる部族の出身者で、特定の部族・家系に世襲されるものではなかった。また、歴代隊長はほとんどがケシクテイ(親衛隊)の出身者であった(志茂1995,49-50頁)
  16. ^ 後述するように遼東・高麗方面に派遣されたタンマチ司令官のサリクタイは「権皇帝」という別のムカリの称号を受け継いでおり、テムデイとサリクタイはそれぞれ担当地域におけるムカリの職務を受け継いだと見られている(松田1996,166-167頁)
  17. ^ 『聖武親征録』にはスブタイ・バートル(速不歹抜都)、テムデイ・コルチ(忒木歹火児赤)、グユク・バートル(貴由抜都)、タガチャル(塔察児)の4名が先鋒として金朝に侵攻したことが記録されている(『聖武親征録』壬辰三月條「上至南京、令忽都忽攻之。上与太上皇北渡河、避暑於官山、速不歹抜都・忒木歹火児赤・貴由抜都・塔察児等、適与金戦、金遣兄之子曹王入質」)。スブタイとグユクはトゥルイ家に仕えていた指揮官であり、オゴデイ率いる大中軍からはテムデイとタガチャルが、トゥルイ率いる右翼軍からはスブタイとグユクが、それぞれ選抜されて先鋒を務めたと考えられている(松田1987,62頁)。
  18. ^ 「忽神碑」の記録では、河北一帯でのタンマチ兵の駐屯はタガチャルの建言によって実施に移されたかのように記されている。しかし、繰り返し述べてきたようにオゴデイ時代に「先鋒軍として征服地に侵攻し、征服の完了後は駐屯軍として征服地に残る軍隊=タンマチ」の派遣はモンゴル帝国の辺境地帯で広く行われているので、全モンゴル帝国の辺境軍事政策の一環としてモンゴル帝国の中枢で立案されたものと考えるべき、と松田孝一は指摘している(松田1987,45-48頁)
  19. ^ 堤一昭は1,「蒙古軍都元帥」「蒙古軍都万戸」「蒙古軍万戸」、またはこれらの名称を含む類似の名称のモンゴル軍団長の職務を帯びた人物を出した家系であること。2,その家を長とする軍団が華北に駐屯していたことが知られること。3,家系の歴史を少なくとも南宋征服戦までたどりうること。以上の三点を条件として諸史料を調べた結果、(1)ウリャンカン部族スベェテイ家、(2)ジャライル部族ブジェク家、(3)ナイマン部族マチャ家、(4)タングト部族チャガン家、(5)マングト部族ボボロゴン家、(6)フーシン部族タガチャル家、(7)ジャライル部族チョルカン家、の7つの河北駐留モンゴル軍団の系譜が存在することを明らかにした(堤1992,34頁)
  20. ^ 特にナイマン部のマチェ率いる軍団はタンマチを率いていたという史料が残っており、松田の推測を裏付けている(松田1996,169-170 頁)
  21. ^ この軍団の名称は四万戸奥魯赤(〜1287年)、蒙古軍都万戸府(1287年〜1303年)、河南淮北蒙古軍都万戸府(1303年〜)というように移り変わっている(松田1987,38-39頁)
  22. ^ 『元史』巻138列伝25伯顔伝,「致和元年七月、泰定帝崩。八月……参政脱別台曰『今蒙古軍馬与宿衛之士皆在上都、而令探馬赤軍守諸隘、吾恐此事之不可成也』」との記述から、上都派のタンマチ兵が上都〜大都間の居庸関・古北口といった要衝を守って大都派と戦っていたことがわかる。なお、『元史』巻86には居庸関などの要衝はキプチャク衛・アスト衛といった軍隊が守っていたと記されているが、これは天暦の内乱終結後に大都派の主流たるキプチャク人・アスト人によってタンマチの職務が奪われたためと推測されている(牧野2012,1024-1027頁)。
  23. ^ 例えば、クビライにより現在の陝西省一帯の管轄を命じられたマンガラの「安西王国」は ペルシア語史料で「ヴィラーヤテ・タングート(ولایت تنگقوت)」と呼ばれている
  24. ^ 金州に侵攻してきた首領の名前は不明であるが、金州に近い均州房州・襄陽を抑える南鎖紅軍の孟海馬、もしくは唐州鄧州南陽を抑える北鎖紅軍の布王三ではないかと考えられている(松田1993,5-6頁)
  25. ^ ソロンカ(ソロンゴス)という名称は一般的に朝鮮(人)を指すモンゴル語として知られるが、モンゴル帝国時代には高麗ではなく遼東〜渤海の一帯を指す呼称として用いられていた。実際に、『集史』などのペルシア語史料では「ソロンカ」と「カウリ(高麗)」をしばしば並列して記しており、特に「クビライ・カアン紀」では「ジュルチェ(女直)とソロンカからなる省(=遼陽等処行中書省)」と「カウリ(高麗)とウクリ(高句麗)からなる省(=征東等処行中書省)」が明確に別の地域として記録されている(岡田2010,153-155頁/宮2018,605頁)。
  26. ^ 『モンゴル秘史』続集巻2,274節は西アジアへのチョルマグン派遣、ロシア方面のタンマチスブタイ派遣を記した後、「さきに、女真人、高麗人[の国々]に出征したるジャライルタイ・コルチの後詰には、イェスデル・コルチを出征させて、『彼らをその地のタンマチ(鎮戍の軍)として、留まらしめよ』とのご沙汰があった」と述べている。ただし、ジャライルタイとイェスデルの派遣はモンケの治世のことであって、『元朝秘史』がオゴデイ時代のこととするのは誤りである(村上1976,328-329頁)
  27. ^ 『元史』巻86百官志2によると、河南淮北蒙古軍には4つの万戸府と2つの千人隊を内包していたが、その内2つの万戸府にのみダルガチが設置されている。ダルガチはそもそも漢人などの被征服民の監視のために設置されるものであるので、ダルガチを置かれた2万人隊が現地徴発された漢人軍団であったと考えられる(松田1987,49-50頁)
  28. ^ ジャライル部のテムデイとフーシン部のタガチャルが特に金朝遠征の先鋒として抜擢されたのは、両者をチンギス・カン時代の左翼万人隊長ジャライル部のムカリと右翼万人隊長フーシン部のボロクルに擬してチンギス・カンの成功にあやかったのではないかと考えられている(松田1996年,166頁)

史料

  1. ^ 『続資治通鑑長編』巻130仁宗慶暦元年(1041) 正月丁巳の條「令西路巡検劉致在徳靖寨、張宗武在敷政県、密布探馬、候賊奔衝、放令入界」
  2. ^ 『三朝北盟命編』巻64靖康元年(1126)11月22日の條「王在磁州、知相州汪伯彦、拠探馬回報、金人鉄騎、約有五百余人、自衛県而来直北、借問康王遠近、虜執村人為嚮導」
  3. ^ 『三朝北盟命編』巻247紹興31年12月16日の條「金人探馬数百騎、入泗州、張豪請討之」
  4. ^ 『九華集』巻24治平之役先発探騎遂破敵,「即命将官李庠、将驍騎三百、名曰探馬、日中騎前数十里、敵兵忽合呼声隠地、庠愕眙、令一騎逸至軍所言状、諸将失色……統領官劉海奮曰、不可、探騎雖少、皆吾人也、不救則吾已戦者尽殲、未戦者益沮、救不可後也……」
  5. ^ 『元史』巻99兵志2,右都威衛の條「国初、木華黎奉太祖命、収札剌児・兀魯・忙兀・納海四投下、以按札児・孛羅・笑乃帯・不里海抜都児・闊闊不花五人領探馬赤軍。既平金、随処鎮守」
  6. ^ 『元史』巻1太祖本紀,「戊子年(1228年)、是歳、皇子拖雷監国」
  7. ^ 『聖武親征録』「戊子、避暑於輪思罕、金主遣使宋朝。太宗皇帝与太上皇共議、遣搠力蛮復征西域」
  8. ^ 『聖武親征録』壬辰三月條「上至南京、令忽都忽攻之。上与太上皇北渡河、避暑於官山、速不歹抜都・忒木歹火児赤・貴由抜都・塔察児等、適与金戦、金遣兄之子曹王入質」
  9. ^ 『元史』巻131列伝18奥魯赤伝「父忒木台……平河南、以功賜戸二千。嘗駐兵太原・平陽・河南、土人徳之、皆為立祠」
  10. ^ 『元史』巻166列伝53石高山伝,「……中統三年、高山因平章塔察児入見世祖、因奏曰『在昔太祖皇帝所集按察児・孛羅・窟里台・孛羅海抜都・闊闊不花五部探馬赤軍、金亡之後、散居牧地、多有入民籍者。国家土宇未一、宜加招集、以備駆策』」
  11. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「元年辛亥夏六月……遂改更庶政、命皇弟忽必烈領治蒙古・漢地民戸……以茶寒・葉干統両淮等処蒙古・漢軍、以帯答児統四川等処蒙古・漢軍、以和里䚟統土蕃等処蒙古・漢軍、皆仍前征進」
  12. ^ また、『集史』「タタル部族志」にはフレグ遠征軍の派遣時にインド方面タンマチの指揮官であったサリ・ノヤンとモンケ・カアンの問答を以下のように記している:「フラグ・ハンを任命してイランの地に送ったとき、モンケ・カアンはサリ・ノヤンに、『汝が行く地方はヒンドゥスターンとホラサーンの国境地帯である。そこはフラグが行く地方と諸王国に接している。汝は、彼の軍の一部隊になれ。すなわち、汝の職務と軍隊はフラグに委ねられ、汝は彼の命令に従わねばならぬ』といった。サリ・ノヤンは『いつまでそこにとどまればよろしいでしょうか』と尋ねた。モンケは『永遠にそこにとどまれ』と命じた……」(訳文は川本2013,112-113頁より引用)。
  13. ^ 『元史』巻99兵志2,右都威衛の條「中統三年、世祖以五投下探馬赤立蒙古探馬赤総管府……三十一年、改隆福宮右都威衛使司」
  14. ^ 『元史』巻86百官2,「河南淮北蒙古軍都万戸府、秩正三品。至元二十四年、以四万戸奥魯赤改為蒙古軍都万戸府……」
  15. ^ 『世界征服者史』によると、チン・テムルの派遣した使者に会ったオゴデイは「チョルマグンは出征以来、多くの国々を打従えたが,、未だ一人の国王も我等のもとに送ってこない。チン・テムルはその領域も狭く、資源も少いのに、このような忠勤を励んだ。彼を称讃する。ホラーサーンとマーザンダラーンの長官職を彼の名前で確認する。チョルマグン及び他の長官たちは干渉の手を引くように」と語ったという(本田1991,106頁)
  16. ^ 『集史』「ベスト部族志」には「バイジュ・ノヤンもまたベスト部族の出身で、ジェベの親族である。オゴデイ・カアンが彼をチョルマグンと共に[イランへ]派遣した。[バイジュ・ノヤンははじめ]千人隊を支配した。チョルマグンの[没]後、[彼の]万人隊を支配した。バイジュはルームを服従させ、「俺こそがルームを服従させたのだ」と口にする程までに[その戦功を]鼻にかけていた。フレグ・カンは彼を召喚し、有罪と認めてヤサによって処刑し、彼の財産のうち半分を没収した。そして彼の万人隊をモンケ・カアンの勅令でチョルマグンの息子シレムンが支配し、またバイジュ・ノヤンの息子アダクがいて、[彼は]千人隊を支配した」とある(志茂1995,101頁)。
  17. ^ 『集史』「ベスト部族志」には「もう一人の万人隊長はマリク・シャーで、ウイグル、カルルク、トルコマン、カシュガル、クチャから一軍が糾合されて彼に与えられた。[彼が]亡くなると彼の地位はその息子ヒンドゥジャクに与えられた。ヒンドゥジャクはコムの王を罪もないのに殺した。この廉でアミール・アルグンはモンケ・カアンの勅令により、彼をトスの城門でヤサによって処刑した。彼の家[族]はチンギス・カンの四子の一族に分配された……」とある(志茂1995,99頁)。
  18. ^ 『集史』「ベスト部族志」には「……[ヒンドゥジャクの]兄弟のサラル・ベクが彼の地位に任命された。キトブカ・ノヤンがミスルの戦いで殺された時サラル・ベクは彼と行動を共にしていたが逃げ帰ってきた。フラグ汗はこの廉で彼を有罪とし、ヤサによって処刑した。そして彼の諸千人隊は他のアミール達に分配され、そのうちの一つの千人隊を現在(ガザン・カン時代)ナウルダルが所持している。」とある(志茂1995,99頁)。
  19. ^ 『集史』「フレグ・ハン紀」には「これ(フレグの西アジア遠征)に先だってバイジュやチョルマグンと共に、鎮守のためにイラン国に派遣していた軍隊と、やはり鎮守のためにダイル・バートルとともにカシミール・インド方面に派遣されていた軍隊を全てフレグの軍隊とする……」とあり、ダイルがインド方面の初代隊長であったことが確認される。
  20. ^ 『集史』
  21. ^ 『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢札千騎・弘吉剌部按赤那顔三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・札剌児部及帯孫等二千騎、同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及札剌児所将契丹兵、南伐金国」/『元史』巻119列伝6木華黎伝,「丁丑八月、詔封太師・国王・都行省承制行事、賜誓券・黄金印曰『子孫伝国、世世不絶』。分弘吉剌・亦乞列思・兀魯兀・忙兀等十軍、及吾也而契丹・蕃・漢等軍、並属麾下。且諭曰『太行之北、朕自経略、太行以南、卿其勉之』」。また、『集史』「チンギス・カン紀」には「イスラーム暦614年にあたる虎年を意味するバルスユルのズルカアダ月(1318年1月)にチンギス・カンは、ムカリに、グーヤン(「国王」の音写)という称号を与え、……オングトの軍隊からなるトゥメン(万人隊)を彼の配下に入れた。また、クシャクルの千人隊、ウルウト部族の四つの千人隊、ブトゥ・ギュレゲン率いるイキレス部族からなる二つの千人隊、クイルダルの息子のモンケ・カルジャ率いるマングト部族の一つの千人隊、アルチ・ノヤン率いるコンギラト部族からなる三つの千人隊、タイスンという名のムカリ・グーヤンの兄弟率いるジャライル部族の二つの千人隊、モンゴル以外では、それぞれウヤル元帥とトガン元帥(耶律禿花)率いるカラ・ヒタイ(契丹の遼)とジュルチャ(女真の金)の軍隊、これらすべての軍をムカリ・グーヤンに委ね、ヒタイとジュルチャの王国だった地方のなかからすでに征服された地域を彼に委ね、それらを守りまだ征服されていない所を可能なかぎり征服するように命じた」とある(訳文は川本2013,85-86頁より引用)。
  22. ^ 『至正集』巻47有元札剌爾三世功臣碑銘并序,「太宗皇帝命行都行省事総烏魯等五部族、将平金賜食邑二千戸」/『元史』巻131列伝18奥魯赤伝「父忒木台、従太宗征杭里部、俘部長以献。復従征西夏有功、特命行省事、領兀魯・忙兀・亦怯烈・弘吉剌・札剌児五部軍……」
  23. ^ 『金史』巻114列伝52,「……蒲阿至、奏対之間不及此、止言大兵前鋒忒木台統之、将出冷水谷口、且当先禦此軍」
  24. ^ 『元史』巻121按竺邇伝,「太宗即位、尊察合台為皇兄、以按竺邇為元帥。戊子、鎮刪丹州、自敦煌置駅抵玉関、通西域、従定関隴」
  25. ^ 『元史』巻121按竺邇伝,「中統元年、世祖即位、親王有異謀者、其将阿藍答児・渾都海図拠関隴。時按竺邇以老、委軍於其子。帝遣宗王哈丹・哈必赤・阿曷馬西討。按竺邇曰『今内難方殷、浸乱関隴、豈臣子安臥之時耶。吾雖老、尚能破賊』。遂引兵出刪丹之耀碑谷、従阿曷馬、与之合戦。会大風、晝晦、戦至晡、大敗之、斬馘無算。按竺邇与総帥汪良臣獲阿藍答児・渾都海等」
  26. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「初、国宝将卒、以世栄幼、命弟国安襲其職。……[至元]十五年、討叛王吐魯於六盤、獲之、請解職授世栄」
  27. ^ 『元史』巻98兵志1,「[大徳]十一年四月、詔礼店軍還属土番宣慰司。初、西川也速畳児・按住奴、帖木児等所統探馬赤軍、自壬子年属籍礼店、隸王相府、後王相府罷、属之陝西省、桑哥奏属土番宣慰司、咸以為不便、大徳十年命依壬子之籍、至是復改属焉」
  28. ^ 『元史』巻91百官7,「李店文州、帖城河里洋脱、朶甘思、常陽、岷州、積石州、洮州路、脱思馬路、十八族。右九府、唯李店文州増置同知・副元帥各一員。其餘八府、隸土蕃宣慰司、設官並同」
  29. ^ 『元史』巻33列伝19歩魯合答伝,「[至元]二十一年、命統蒙古探馬赤軍千人従征金歯蛮、平之……」
  30. ^ 『明太祖実録』洪武四年四月二十三日(乙巳)の條「……先是均諒為漢蕃千戸、受夏主命攝礼店元帥府同知。至是来朝貢馬……」/『明太祖実録』洪武四年六月十七日(戊戌)の條「……至是、世真誘合番寇数万来攻。顕忠戦却之。偽夏趙元帥復与世真合兵攻城……」
  31. ^ 『明太祖実録』洪武四年十一月二十一日(庚午)の條「置礼店千戸所。以孫忠諒趙伯寿為正千戸、石添寿等為副千戸。忠諒本文州漢軍、為西番万戸府正万戸。夏主授以礼店副元帥・達魯花赤。聞潁川侯傅友徳征蜀、師次秦州。率所部降。与漢番千戸王均諒、倶従友徳克階・文二州。至是蜀平。忠諒率其軍民千戸世襲達魯花赤趙阿南、趙伯寿、東寨千戸唐兀不花、達魯花赤石添寿等入朝貢馬。詔賜文綺衣各一襲、及文綺有差。遂置千戸所併所属百戸所。以忠諒等為千戸以忠諒為千戸」
  32. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「十八年……十一月……癸巳……蒙兵有一、元帥自称権皇帝名撒礼塔、坐氊廬、飾以錦繍、列婦人左右乃曰……」
  33. ^ 『元史』巻134列伝21和尚伝,「……上疏言『蒙古軍在山東・河南者、往戍甘粛、跋渉万里、裝橐鞍馬之資、皆其自辦、毎行必鬻田産、甚則賣妻子。戍者未帰、代者当発、前後相仍、困苦日甚。今辺陲無事、而虚殫兵力、誠為非計、請以近甘粛之兵戍之。而山東・河南前戍者、官為出銭、贖其田産妻子、庶使少有瘳也』。詔従之」

出典

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  94. ^ 松田1996,95-96頁
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  96. ^ 松田1992A,97頁
  97. ^ 箭内1930,480-483頁
  98. ^ 箭内1930,482-486頁
  99. ^ 森平2013,45-51頁
  100. ^ 訳文は川本2013,107-108頁より引用
  101. ^ 川本2013,101頁
  102. ^ 川本2013,107-108頁
  103. ^ 松田1987,44-45頁
  104. ^ 松田1987,58-59頁
  105. ^ 海老沢1966,55-56頁
  106. ^ 川本2013,100-103頁




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