ヒタイ方面とは? わかりやすく解説

ヒタイ(旧金朝領華北)方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)

タンマチ」の記事における「ヒタイ(旧金朝華北方面」の解説

先に述べたようにヒタイ方面軍はチンギス・カン時代編成されムカリ率いる旧金朝駐屯軍起源とするものであった。『元史』や『聖武親征録』、『集史』などの諸史料一致して伝えところによると、旧金朝領に駐屯することになったムカリの下にはムカリ直属ジャライル千人隊アルチ・ノヤン率いコンギラト千人隊ジュルチェデイ率いウルウト千人隊モンケ・カルジャ率いマングト千人隊ブトゥ・キュレゲン率いイキレス千人隊先に述べた新設のクシャウル・ジュスクの3千人隊ウヤル耶律禿花指揮官とする契丹人女真人混成軍2所属していたという。この内、ジャライル・コンギラト・ウルウト・マングト・イキレスの5部族から抽出され軍団(「五投下探馬赤」)は旧金朝領に、ウヤル率い軍団遼東・高麗方面に、耶律禿花率い軍団タングート方面に、オゴデイ時代それぞれ振り分けられて各地タンマチ中核となったムカリ軍の中でも金朝との戦い主力として活躍したのはアルチャルら「五武将」と称され将軍たちで、彼らは金朝領の各地点線してチンギス・カン不在隙をつく金軍反抗防いだ。彼らはムカリ死後その息子ボオル指揮下に入ったが、チンギス・カンの死の翌年1228年)にボオルもまた亡くなると、ムカリ家の指揮下からは外れた。代わってこれらの軍団指揮官として抜擢されたのがムカリと同じジャライル部出身テムデイフーシン部出身タガチャルで、テムデイはかつてムカリ率いていた「五投下タンマチ」を率いタガチャルオゴデイ即位直後河北徴発され漢人兵と旧来のモンゴルからなる新編成タンマチ率いたテムデイはかつてムカリ称していた「行都行省事」という称号を名のっており、ヒタイ方面におけるムカリ後継者位置づけられていたと考えられる1229年よりオゴデイ自ら軍を率いて金朝侵攻が始まると、テムデイ率いタンマチ軍は先鋒として金朝領に切り込み最終的に金朝皇帝追い詰めて金朝滅亡させる功績挙げた金朝平定後は、今度南宋対す防備のためにテムデイタガチャル率いタンマチ聞喜県現在の山西省運城市聞喜県)に駐屯して東は曹州濮州から西は潼関あたりまでの河北一帯守備担った。さらに、オゴデイ長い戦乱によって人口希薄地帯となった河南一帯非主流モンゴル部出身者隊長とする、モンゴル兵と現地徴発兵の混成軍団多数設置した。これらの軍団史料上でタンマチ」と明記されることは少ないものの、その性格が他のタンマチ一致すること、断片的な記述からこれタンマチ一種であった考えられている。こうして、オゴデイの治世半ばにはテムデイ家・タガチャル率い大規模なタンマチ軍団(後の河南淮北蒙古軍)が河北一帯駐屯し金朝平定後に多数新設されモンゴル漢人混成軍団(=これもタンマチ一種)が河南南宋との最前線配備されるという体制整えられた。 しかし、前述したように第4代皇帝モンケの治世に入るとヒタイ方面タンマチ再編成進められ南宋遠征においてもテムデイ五投下軍切り離され上でモンケ軍の下に、タガチャル息子ベルグテイ新設のチャガン率い部隊に、それぞれ転属させられた。主力兵団から切り離されてしまったテムデイ父子モンケ南宋親征から帝位継承戦争李璮の乱といったこの頃主な戦役でほとんど軍功がなく、一方寿州戦いで戦死していたタガチャル息子ベルグテイ南宋との戦い最前線送られ襄陽・樊城の戦い戦死するなどそれぞれに不遇な立場にあった。しかし、1259にモンケ急死するクビライモンケ政策覆す命令を出すことでタンマチ指示取り付け遠征中に戦死したベルグテイ息子ミリチャルもまたクビライ積極的に支持したテムデイ父子モンケ直属軍にいたこともありクビライへの帰参遅れたが、後にタガチャル家の率いていた軍団に再合流しテムデイ家・タガチャル家の率いタンマチは「河南淮北蒙古軍都万戸府」として知られる至った河南淮北蒙古軍始めとするヒタイ方面のタンマチ諸軍団は南宋遠征にも動員されタガチャル襄陽・樊城の戦い参加して功績挙げている。南宋平定後はしばらく旧南宋領に駐屯して征服地の軍政民政兼ねたが、1278年至元15年)に河北本拠帰還することになったまた、この頃洛陽龍門山の南に新し本拠地建設し、これ以後河南淮北蒙古軍は「黄河の南、河南行省西部」を中心に駐屯するようになった。 これ以後もヒタイ方面タンマチ多く外征内戦動員され、1281-1282年の江西反乱鎮圧、1287-1288年のヴェトナム遠征1287年ナヤンの乱討伐、1296-1305年のカイシャン指揮下でのカイドゥ・ウルスとの戦いなど大元ウルス主立った戦役のほとんどに参加したまた、1328年天暦の内乱ではタンマチアリギバ戴く上都派とトク・テムル戴く大都派、両方派閥分かれて争った敗北した上都派についての記録少ないが、大都についたタンマチ指揮官はいずれ上都派との戦い敗れており、この内乱において非当事者たるタンマチ兵の士気士気低かったものとみられるヒタイ各地散在しタンマチ兵は元朝末期14世紀半ば至って健在で、紅巾の乱討伐などで活躍したチャガン・テムルについて『庚申外史』は「潁州沈丘出身タンマチチャガン・テムル潁州沈丘探馬赤察罕帖木児)」と称しており、またその後継者ココ・テムル先祖タンマチ一員として河南地方移住してきた兵の末裔であると考えられることから、元末に活躍した彼らの率いる「河南軍閥」はヒタイ方面タンマチ後身であった考えられている。チャガン・テムル率い河南軍閥には漢人将軍多数所属しており、「モンゴル兵と漢人兵の混成軍」という タンマチ性格が元末に至って存続していたことが確認されるココ・テムル大元ウルス最末期名臣として反乱軍との戦い活躍した大元ウルス衰退大局覆すまでには至らず1368年明朝建国した朱元璋派遣した軍勢によって首都大都陥落し、ヒタイ方面タンマチ大部分明朝降ったと見られる

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ヒタイ方面

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タンマチ」の記事における「ヒタイ方面」の解説

前述したようにヒタイ方面には多数タンマチ配備されており、後に侍衛親軍一つとなった五投下タンマチ」、河南一帯駐屯した「河南淮北蒙古軍」、山東一帯駐屯した「山東河北蒙古軍」などが主に知られている。

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