ヒタイ(旧金朝領華北)方面
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「タンマチ」の記事における「ヒタイ(旧金朝領華北)方面」の解説
先に述べたようにヒタイ方面軍はチンギス・カン時代に編成されたムカリ率いる旧金朝領駐屯軍を起源とするものであった。『元史』や『聖武親征録』、『集史』などの諸史料が一致して伝えるところによると、旧金朝領に駐屯することになったムカリの下にはムカリ直属のジャライル千人隊、アルチ・ノヤン率いるコンギラト千人隊、ジュルチェデイ率いるウルウト千人隊、モンケ・カルジャ率いるマングト千人隊、ブトゥ・キュレゲン率いるイキレス千人隊、先にも述べた新設のクシャウル・ジュスクの3千人隊、ウヤルと耶律禿花を指揮官とする契丹人・女真人混成軍2万が所属していたという。この内、ジャライル・コンギラト・ウルウト・マングト・イキレスの5部族から抽出された軍団(「五投下探馬赤」)は旧金朝領に、ウヤル率いる軍団は遼東・高麗方面に、耶律禿花率いる軍団はタングート方面に、オゴデイ時代にそれぞれ振り分けられて各地のタンマチの中核となった。 ムカリ軍の中でも金朝との戦いで主力として活躍したのはアルチャルら「五武将」と称された将軍たちで、彼らは金朝領の各地を点線してチンギス・カン不在の隙をつく金軍の反抗を防いだ。彼らはムカリの死後その息子ボオルの指揮下に入ったが、チンギス・カンの死の翌年(1228年)にボオルもまた亡くなると、ムカリ家の指揮下からは外れた。代わってこれらの軍団の指揮官として抜擢されたのがムカリと同じジャライル部出身のテムデイとフーシン部出身のタガチャルで、テムデイはかつてムカリが率いていた「五投下タンマチ」を率い、タガチャルはオゴデイ即位直後に河北で徴発された漢人兵と旧来のモンゴル兵からなる新編成のタンマチを率いた。テムデイはかつてムカリが称していた「行都行省事」という称号を名のっており、ヒタイ方面におけるムカリの後継者と位置づけられていたと考えられる。 1229年よりオゴデイ自ら軍を率いての金朝侵攻が始まると、テムデイ率いるタンマチ軍は先鋒として金朝領に切り込み、最終的には金朝皇帝を追い詰めて金朝を滅亡させる功績を挙げた。金朝の平定後は、今度は南宋に対する防備のためにテムデイとタガチャル率いるタンマチは聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)に駐屯して東は曹州・濮州から西は潼関あたりまでの河北一帯の守備を担った。さらに、オゴデイは長い戦乱によって人口希薄地帯となった河南一帯に非主流のモンゴル部族出身者を隊長とする、モンゴル兵と現地徴発兵の混成軍団を多数設置した。これらの軍団は史料上で「タンマチ」と明記されることは少ないものの、その性格が他のタンマチと一致すること、断片的な記述からこれもタンマチの一種であったと考えられている。こうして、オゴデイの治世の半ばにはテムデイ家・タガチャル家率いる大規模なタンマチ軍団(後の河南淮北蒙古軍)が河北一帯に駐屯し、金朝平定後に多数新設されたモンゴル・漢人混成軍団(=これもタンマチの一種)が河南の南宋との最前線に配備されるという体制が整えられた。 しかし、前述したように第4代皇帝モンケの治世に入るとヒタイ方面タンマチは再編成が進められ、南宋遠征においてもテムデイは五投下軍と切り離された上でモンケ軍の下に、タガチャルの息子ベルグテイは新設のチャガン率いる部隊に、それぞれ転属させられた。主力兵団から切り離されてしまったテムデイ父子はモンケの南宋親征から帝位継承戦争、李璮の乱といったこの頃の主な戦役でほとんど軍功がなく、一方寿州の戦いで戦死していたタガチャルの息子ベルグテイは南宋との戦いの最前線に送られ襄陽・樊城の戦いで戦死するなどそれぞれに不遇な立場にあった。しかし、1259にモンケが急死するとクビライはモンケの政策を覆す命令を出すことでタンマチの指示を取り付け、遠征中に戦死したベルグテイの息子ミリチャルもまたクビライを積極的に支持した。 テムデイ父子はモンケ直属軍にいたこともありクビライへの帰参は遅れたが、後にタガチャル家の率いていた軍団に再合流し、テムデイ家・タガチャル家の率いるタンマチは「河南淮北蒙古軍都万戸府」として知られるに至った。 河南淮北蒙古軍を始めとするヒタイ方面のタンマチ諸軍団は南宋遠征にも動員され、タガチャルは襄陽・樊城の戦いに参加して功績を挙げている。南宋の平定後はしばらく旧南宋領に駐屯して征服地の軍政・民政を兼ねたが、1278年(至元15年)に河北の本拠に帰還することになった。また、この頃に洛陽龍門山の南に新しい本拠地を建設し、これ以後河南淮北蒙古軍は「黄河の南、河南行省の西部」を中心に駐屯するようになった。 これ以後もヒタイ方面タンマチは多くの外征・内戦に動員され、1281-1282年の江西の反乱鎮圧、1287-1288年のヴェトナム遠征、1287年のナヤンの乱討伐、1296-1305年のカイシャン指揮下でのカイドゥ・ウルスとの戦いなど大元ウルスの主立った戦役のほとんどに参加した。また、1328年の天暦の内乱ではタンマチはアリギバを戴く上都派とトク・テムルを戴く大都派、両方の派閥に分かれて争った。敗北した上都派についての記録は少ないが、大都派についたタンマチ指揮官らはいずれも上都派との戦いに敗れており、この内乱において非当事者たるタンマチ兵の士気の士気は低かったものとみられる。 ヒタイ各地に散在したタンマチ兵は元朝末期の14世紀半ばに至っても健在で、紅巾の乱討伐などで活躍したチャガン・テムルについて『庚申外史』は「潁州沈丘出身のタンマチ、チャガン・テムル(潁州沈丘探馬赤察罕帖木児)」と称しており、またその後継者ココ・テムルも先祖がタンマチの一員として河南地方に移住してきた兵の末裔であると考えられることから、元末に活躍した彼らの率いる「河南軍閥」はヒタイ方面タンマチの後身であったと考えられている。チャガン・テムルの率いる河南軍閥には漢人将軍も多数所属しており、「モンゴル兵と漢人兵の混成軍」という タンマチの性格が元末に至っても存続していたことが確認される。ココ・テムルは大元ウルス最末期の名臣として反乱軍との戦いに活躍したが大元ウルス衰退の大局を覆すまでには至らず、1368年に明朝を建国した朱元璋の派遣した軍勢によって首都の大都は陥落し、ヒタイ方面タンマチも大部分が明朝に降ったと見られる。
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ヒタイ方面
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前述したようにヒタイ方面には多数のタンマチが配備されており、後に侍衛親軍の一つとなった「五投下タンマチ」、河南一帯に駐屯した「河南淮北蒙古軍」、山東一帯に駐屯した「山東河北蒙古軍」などが主に知られている。
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