大坂夏の陣図屏風
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大坂夏の陣図屏風(おおさかなつのじんずびょうぶ)は、慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣の様子を描いた紙本金地著色・六曲一双の屏風絵。大阪城天守閣所蔵、重要文化財。筑前福岡藩黒田家伝来で、「黒田屏風」、「黒田本」とも呼ばれる。戦国時代最後の戦いの激烈さと戦災の悲惨さを迫真の描写で描き出し、数ある日本の合戦図屏風の中でも白眉と呼ばれる。
- ^ a b 中嶋利一郎『黒田家什物大坂陣屏風図考』、明治末頃、東京大学史料編纂所蔵。中嶋は黒田侯爵家の記録編纂係だった人物で、当時の帝大史料編纂所の求めに応じて黒田家から提出された「大坂陣屏風」についての調査報告書とみられる(渡辺(2015)p.146)。
- ^ 岡本良一 『図説大阪の陣』(創元社、1978年)や岡本(1988)で、岡本は「元和版「ゲルニカ」」と評している。また、NHKの歴史番組『その時歴史が動いた』2008年6月25日放送のタイトル「戦国の「ゲルニカ」 ~大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか~」。渡辺(2015)。
- ^ a b 『黒田家什宝故実』の追補「御数寄道具故実」(江戸中期、黒田光之没後まもなくに成立)。
- ^ a b 「竹森家伝」(中嶋利一郎『黒田家什物大坂陣屏風図考』所収、原本未確認)。
- ^ 脇坂(1980)で内田九州男の自説として紹介されている。ただし、それを傍証する史料はない。
- ^ 知念(1991)。
- ^ 渡辺(2015)pp.11-13。
- ^ 大坂冬の陣で金扇の馬印は家康から秀忠に譲られており、この時家康の馬印は「金のふくべ」になっていたはずだが、家康のシンボルとして金扇の馬印は欠かすことが出来ないためか、敢えてこのように描いていると考えられる(岡本(1988))。
- ^ 『中院通村日記』元和二年四月二十一日条。
- ^ 中村(1988)。
- ^ 「「大坂冬の陣図屏風」デジタル想定復元 公式」『fuyunojin.tumblr.com』。2024年2月4日閲覧。
- 1 大坂夏の陣図屏風とは
- 2 大坂夏の陣図屏風の概要
- 3 脚注
大坂夏の陣図屏風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)
現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した黒田長政が当時一流の絵師を集めて描かせた大作の屏風絵「大坂夏の陣図屏風」通称、「黒田屏風」(重要文化財)の左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。落城後の混乱の中でも豊臣勢の抵抗はしばらく続いた。
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