べっ‐け【別家】
別家
別家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/06 09:00 UTC 版)
独立自営の資本をもらった主家の分身であり、江戸時代には主家の屋号をもらい、その脇店として独立した。明治以降になると同業者の増加から競争の激しい店持ちを嫌って、引き続き店に勤務するものが増加した。しかし、この場合でも、礼服一式と寝具類を主家からもらって所帯をもち、一応独立の形をとって「通い」となる。そして暖簾分けの代わりに、別家料としてかなりの高額の給金が約束された。京都二条の薬種商では半井萬紹商店がこの通勤制度を初めて実施した。
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別家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 05:16 UTC 版)
赤穂浅野家(播磨国赤穂藩) ※ 1701年(元禄14年)絶家 関ヶ原の戦いで戦功を挙げた浅野長政は、隠居料として常陸真壁・筑波5万石の領地を得たが、1611年(慶長16年)9月7日に死去し、三男の長重(当時、真岡藩主)がその隠居料を継いだ。公収によって真岡と真壁を合わせて領したが、1622年(元和8年)に常陸国笠間に移封。長直の代に播磨国赤穂、加西、加東、作用の4郡、53,500石で移封された。しかし3代長矩(内匠頭)の代のとき、江戸城内での長矩の吉良義央への殿中刃傷事件で改易となり、『忠臣蔵』で知られる赤穂事件が起きるきっかけとなった。 浅野大学家(再興・赤穂浅野家) ※ 1986年(昭和61年)絶家 その後、広島浅野宗家にお預けとなっていた浅野長矩の弟の浅野長広が宝永6年(1709年)8月20日に将軍綱吉の死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日に改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復した。またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。 以降、旗本として存続し、明治維新を迎えた。維新後の明治元年(1868年)9月23日からは徳川幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り、浅野長栄は弁官の支配とされた。赤穂浅野家は、長栄の孫である長楽の代まで存続したが、浅野長楽が妻帯せぬまま、1986年(昭和61年)に病死したため、赤穂浅野家は断絶した。 若狭野浅野家(赤穂郡相生村) 赤穂浅野家の分家旗本。浅野長恒が1671年に兄・長友から三千石を分与されて成立。 家原浅野家(加東郡家原) 赤穂浅野家の分家旗本。浅野長賢が同年、同じく三千五百石を分与されて成立。
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