明治以降(東北)
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一方、明治以降、東北地方において、当初士族層・一定の資力のある農民・マタギの間でクマタカによる雪山の鷹狩が広がりを見せた。クマタカの飼育自体は鎌倉時代から見られ(古今著聞集)、中世の鷹書においても「角鷹」への言及が見られる。東北地方の「鷹使い」の起源は明らかでなく、幕末以前に遡る見方もあるが、用具とその名称に共通・類似するものがあることから、武士の鷹狩が土着化したものと見られる。名手として知られた三浦恒吉(1863 - 1938年)は、院内の伝助なる人物の流れを汲むが、旧戸沢藩鷹匠家の佐々木甚助とも親交があった。東北地方の「鷹使い」は生業鷹匠として発展したが、第二次世界大戦後の経済状況の変化で急速に衰亡し、武田宇市郎(1915-1992)の没後、現在では沓沢朝治の下で1年間学んだ松原英俊がいる。 浜離宮恩賜庭園での放鷹術実演(2010年1月2日撮影) 放鷹術実演(2010年1月2日撮影) 放鷹術実演(2010年1月2日撮影)
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明治以降(渡良瀬川改修と城の消滅)
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戊辰戦争では、藩内の意見を勤皇派に統一して戦火を避けたが、明治6年(1873年)に発布された廃城令によって廃城処分となり、建造物はすべて破却された。迅速測図(明治15年近辺における地図)上で当時の概要を確認できる。 明治末に、度重なる渡良瀬川の洪水対策を目的として、16年間の大規模な河川改修事業が始まる。このときに主要な曲輪は削平され、堀は埋め立てられて、堤防や河川敷などに変わり、城跡のほとんどが消滅した。建設機械が発達していない時代に、このように大きな城跡を徹底して破壊した例は珍しく、改修事業の規模の大きさが分かる。ちなみに頼政曲輪(立崎曲輪)が削平された際、小規模な古墳が発見されている。 この河川改修の際、遊水池を設けるために、古河城の北にあった旧古河藩領・谷中村が廃村となった。このとき、田中正造は「関宿の江戸川分岐点の閘門を広げて、利根川の水を地勢に従って東京湾に流すことで、遊水池がなくても洪水を防げる」と主張し、足尾銅山の鉱毒問題が治水問題にすりかえられていると批判した。
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