吉良義央とは? わかりやすく解説

きら‐よしなか【吉良義央】

読み方:きらよしなか

[1641〜1703]江戸中期幕府高家通称上野介(こうずけのすけ)。名は「よしひさ」とも。元禄14年(1701)、勅使下向の際、江戸城内で接待役の浅野長矩(ながのり)に斬りつけられて負傷。長矩は即日切腹、義央はおとがめなく、赤穂義士討ち入り殺された。→高家4


吉良義央

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 05:44 UTC 版)

吉良 義央(きら よしひさ / きら よしなか、寛永18年9月2日1641年10月6日〉- 元禄15年12月15日1703年1月31日〉)は、江戸時代前期の高家旗本高家肝煎)。元禄赤穂事件の中心人物の一人。題材をとった創作作品『忠臣蔵』では、敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上左近衛権少将上野介こうずけのすけ。一般的には吉良 上野介と称される。本姓はみなもと


注釈

  1. ^ 吉良上野介の本所への屋敷替えについて「隣家の蜂須賀飛騨守が、内匠頭の家来が吉良邸へ斬り込んでくるのを日夜警戒していたが、出費もかかり困り果てて老中に屋敷替えを願い出た」(これは堀部安兵衛らが大石に送った8月19日付書簡に書かれてあった。同様の記述が『江赤見聞記』巻四[8]にも記されている)という。
  2. ^ 義叔の孫に当たる義孚の代に「東条」から「吉良」へ復姓する。
  3. ^ 高家の「今川」における「品川」と同じ扱い。
  4. ^ 1両=10万円計算で、現在の価格でおよそ6億円。
  5. ^ 「卜一」とは上野介の「上」の字を二分したもの。
  6. ^ 「俗念に一つの区切りをつけた彼の心境は歌の中にゆるやかな思いをひそめている。これこそ、いかにも名君の心境であろう。」と尾崎士郎は解説している。
  7. ^ 源氏の白旗に吉良家の家紋の幟が、稲荷の赤旗とともに立つ
  8. ^ 森村誠一著『忠臣蔵』は改版を重ねて角川文庫、講談社文庫、朝日文庫、徳間文庫にそれぞれ含まれる。

出典

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『吉良義央』 - コトバンク
  2. ^ 朝日日本歴史人物事典『大石良雄』 - コトバンク
  3. ^ 朝日日本歴史人物事典『吉良義央』 - コトバンク
  4. ^ 谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久 - 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書、1994年)pp.167-176
  5. ^ 『日本誌』(元禄四年三月四日の項)
  6. ^ 鈴木悦道「ドイツ人医師の見た吉良上野介」133~134頁
  7. ^ 松平信望は下谷の町野酒之丞のものだった屋敷を拝領
  8. ^ 江赤見聞記.
  9. ^ 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」』 1999年。93-95p
  10. ^ 『赤穂市史』第1巻
  11. ^ 「米沢塩井家覚書」
  12. ^ a b 山本(2013) 188-192
  13. ^ 山本(2012a) 第七章二節「大石内蔵助の最後」
  14. ^ 「赤穂義士修養実話」第十三章 267-273
  15. ^ 「其れでは打ち首と大差なし」と注意され、「小脇差を出すようにというお指図」を受けた(『長府藩預義士一件』)
  16. ^ 『上杉家御年譜 第6巻 綱憲公』
  17. ^ 山本博文 『赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)』 吉川弘文館
  18. ^ 寛政重修諸家譜」巻第九十二。 
  19. ^ 松田敬之 2015, p. 255.
  20. ^ 『旧高旧領取調帳』など
  21. ^ 雲孫の子。雲孫よりあとの末孫は定まった呼称がない。
  22. ^ 村田昇『修身教科書 近代日本の教科書のあゆみ : 明治期から現代まで』第1部 明治期から昭和戦前期の変遷、サンライズ出版、2006年10月、15-21頁。ISBN 4883253082https://hdl.handle.net/10441/392 
  23. ^ 現地『吉良祭』由来説明。本所では、現在も12月13日に鎮魂を兼ねた「吉良祭」が開催されている。
  24. ^ 「北斎」(3~5ページ、総合研究大学院大学教授・大久保純一、岩波書店)
  25. ^ 旧・吉良神社は明治政府の神社合祀の方針により旧・松坂稲荷と統合され、義央の墓を持つ現在の姿になっている。
  26. ^ 川平、井上編(2016年)、P120
  27. ^ 「日光山御社参御行列書」(国公立文書館)ほか
  28. ^ 本蔵は多胡真蔭になぞらえているという説もあるが、真蔭は長矩の刃傷を制止していない。
  29. ^ 「大田南畝全集第十一巻 1988年・昭和63年 岩波書店刊」より『半日閑話』「巻二十二」
  30. ^ 「立退」は勝手に姿を消すことで良い意味には使われない。本懐を遂げての引き揚げなら「凱帰」など。
  31. ^ 「酒井家編年史料稿本 二百二十六」東大史料編纂所
  32. ^ 落合勝信『江赤見聞記』
  33. ^ 藩政史研究会 (編)『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』。 
  34. ^ 「6月8日付須田右近書状」『上杉文書目録』、1969年。
  35. ^ 渡辺誠『直江兼続と上杉鷹山』。 
  36. ^ 小野栄「米沢藩」。 
  37. ^ 米沢市史編さん委員会 (編)『米沢市史』。 
  38. ^ 上越市史専門委員会中世史部会 (編), ed. 上杉家御書集成 
  39. ^ a b c 谷口 2019, p. 67.
  40. ^ 「陽和院書状」という書状が現存。『陽和院書状』福武書店〈広島大学所蔵猪熊文書〉。 
  41. ^ 谷口眞子「吉良家・上杉家からみた赤穂事件」『特別展図録 元禄赤穂事件』、赤穂市立歴史博物館、2019年、67頁。 
  42. ^ 「世界遺産 仙巌園/尚古集成館 案内図」二十八番「観音岩」
  43. ^ 「吉良上野介を慰霊 島津家当主ら菩提弔う」(「毎日新聞」2017/12/16 地方版)など
  44. ^ 「山鹿素行年譜」(延宝三年八月六日、丸子宿)
  45. ^ 「山鹿素行日記」(延宝八年八月十二日之条)
  46. ^ 「松浦家関係文書」(松浦史料博物館)
  47. ^ 『山鹿語類』には「諫めても改めぬ主君なら臣より去るべし」と「士は二君に仕える」を肯定する箇所(君臣論)があり、素行自身も実践している。
  48. ^ 津軽家文書より「山鹿家系図」(弘前山鹿氏は山鹿嫡流で山鹿素水に至る)
  49. ^ 赤穂藩の宗家である広島藩浅野家は素行が批判した朱子学を藩学とした。(朱子学以外の素行の古学などの教授は学問所への出入りが禁じられた。)
  50. ^ 『甲子夜話』(正篇三十など)
  51. ^ 同(続篇七)
  52. ^ 津軽家中には同じ七将の福島正則の養孫もいたが、大名福島家の再興を図ろうとして妨害され、毒殺されたともいわれている(『大道寺家譜』)。
  53. ^ 上杉綱憲に対しては幕府から出兵禁止の上使が向かったが(『上杉家年譜』)、津軽家には禁止の命令があった記録はない
  54. ^ 津軽家文書『弘前藩庁日記』(国文学研究資料館ほか)
  55. ^ 『山鹿語類』には「主のために命を棄つるは愚かなり」とあり、武士道(『葉隠』「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」など)とは対極の思想がある。(『山鹿語類』君臣論)
  56. ^ 氏家幹人『江戸老人旗本夜話』
  57. ^ 「『応円満院基煕公記』百五十二(元禄十四年自正月至三月)」。 
  58. ^ 野口武彦『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』
  59. ^ a b 赤穂義士史料 . 中央義士会 (編)[他]. 雄山閣. (1931 (昭和6年)) 
  60. ^ 野宮定基「定基卿記」。 
  61. ^ 『正親町公通卿雜話』45p(東京大学・文学部宗教学研究室)
  62. ^ 谷口 2019, p. 66.
  63. ^ 徳川実紀. 成島司直 等 (編). 経済雑誌社 
  64. ^ 「紀州政事鏡」。 
  65. ^ 鹿島藩江戸留守居役「御在府日記」『鹿島藩日記』三好不二雄 (編)。 元禄11年(1698年)9月2日の記述。
  66. ^ 三好.
  67. ^ 『岡本元朝日記』秋田県公文書館 (編)。 
  68. ^ 『梅津忠昭日記』(秋田県公文書館)。同館広報誌の『古文書倶楽部』22号に一部現代語訳
  69. ^ 安中市市史刊行委員会 編『安中市史』 2巻、(通史編)。 
  70. ^ 忠臣蔵にまつわる史跡?! 〜仙石因幡守の石祠・頌徳碑〜 あんなか・みんなのサイト - 特定非営利活動法人 群馬活性化企画センター
  71. ^ 鎧ケ淵を中心とする岡山瀬戸古絵図」、西尾市の文化財 -西尾市。
  72. ^ 西尾市 編『西尾市史』 1巻、1973年、P562、558頁。 
  73. ^ 黄金堤(こがねづつみ) - 愛知エースネット/愛知県総合教育センター
  74. ^ a b c 西尾市史編さん委員会 (編)『吉良家日記』。 
  75. ^ 町人の進めた干拓 水土の礎 - (一社)農業農村整備情報総合センター
  76. ^ 吉良の赤馬 あいちの地場産業 - 岡崎信用金庫
  77. ^ 「瀬戸村整埋図」1885年“番外三十二番黄金堤 長十七間四尺 幅平均九間 (黄金堤の名称とその存在の初現)” 
  78. ^ 「黄金堤発掘調査報告」『愛知県埋蔵文化財センター年報』1991年3月。 
  79. ^ 渡辺誠『<元禄赤穂事件と江戸時代>悪評まみれの名君 吉良上野介義央』。 
  80. ^ 塩と歴史 くらしお古今東西 塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会。
  81. ^ 「赤穂城下町跡発掘調査報告書」(2005年、赤穂市教育委員会)p9
  82. ^ 『赤穂浪士 紡ぎ出される「忠臣蔵」』(1999年、三省堂)180p
  83. ^ 西尾市公式web「西尾市の文化財」西尾市の文化財一覧(2011年11月25日)
  84. ^ 「本所松坂町公園」現地説明
  85. ^ 上杉家「須田右近書状」ほか
  86. ^ うち中島伊勢(葛飾北斎の養父)が一部を使用(飯島虚心『葛飾北斎伝』)
  87. ^ 中央義士会「忠臣蔵史蹟事典 東京都版」(五月書房、2008年)
  88. ^ 現在の氷川神社は一本松坂を南下したアルゼンチン共和国領事館向かいに位置する。
  89. ^ 『御府内場末往還其外沿革圖書』元禄七年(皇紀二千六百年記念「麻布区史」)
  90. ^ 境内「花岳寺由緒案内板」・一般財団法人「西尾観光協会」西尾観光公式webなど。
  91. ^ 宮腰松子『吉良流の研究』("Résumé " A Study on Kira-Ryu ")22頁
  92. ^ 「国宝 上杉家文書」(国会図書館・上杉博物館など)
  93. ^ 「国指定文化財データベース」(文化庁)
  94. ^ 鈴木悦道『新版 吉良上野介』(中日新聞社、1995年)巻頭カラー写真8頁
  95. ^ 「吉良流四巻書」(東京大学総合図書館所蔵)
  96. ^ 文化13年(1816年)、西尾市(吉良町)教育委員会所蔵
  97. ^ 宮腰松子『吉良流の研究』26頁
  98. ^ 初代・高岡孝信は和歌山時代の浅野家臣
  99. ^ 「吉良流旧法目録抄解」(三原図書館所蔵)
  100. ^ 同『新版 吉良上野介』巻頭カラー写真5頁
  101. ^ a b c 中江克己『忠臣蔵の収支決算』。 
  102. ^ 三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』叢文閣、1934年、64頁。 
  103. ^ 小林輝久彦「江戸前期のある旗本の財政状況についての考察 : 幕府高家吉良義央の場合」(PDF)『大倉山論集』第62巻、大倉精神文化研究所、2016年3月、163-203頁、ISSN 0471-5152NAID 40020803627 
  104. ^ 『鹿児島県史料 旧記雑録追録1』鹿児島県、1971年、282頁。 
  105. ^ 小林 2016, p. 165-180.
  106. ^ 小林 2016, p. 165-169.
  107. ^ a b 小林 2016, p. 188.
  108. ^ 赤穂義挙録. 上. 義士叢書刊行会 (編) 





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