へい‐もん【閉門】
閉門
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閉門
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天明8年に当時長崎奉行だった末吉は、長崎在勤中に閉門となった。その理由について、唐人屋敷を管理した唐人番たちが書き継いだ『唐人番日記』では、 「未拾一番船信牌なし唐船之儀・未九番船折返シ之儀ニ付御差控之由」 と、前年に来航した2隻の唐船(第九番船と第十一番船)の措置について不正をただされたためとある。 このうち第九番船について、『寛政重修諸家譜』では、長崎在留の唐船を帰帆させた後に、折返し再航させたことが、先例こそあるものの一存でこれを許可したのは越権行為だったと書かれている。 『続長崎実録大成』によれば、入港許可証である信牌を持参しなかった第十一番船に対して、末吉は薩摩に流れ着いて貿易ができなくなっていた前年度の六番船の信牌を流用して貿易することを認めたと記されている。当時のオランダ商館長シャッセーの私的日記によれば、通詞から得た情報として、この第十一番船は「ただ一冊の帳面、その中に、会所との間での彼らのもたらした荷物に関するある種の契約素案と注文が書かれていたが、その帳面だけを持って当地に来た」(「オランダ商館長日記」)と書いており、末吉は事前に何らかの約束をしていた第十一番船の商人と長崎会所のために、薩摩に漂流したことになっていた船の名義を転用したことになる。 天明の大飢饉の際、長崎でも打ちこわし(天明の打ちこわし)が発生した直後、末吉は奉行としての都市運営の基本方針を呈しており、そこでは「御国益不失様、并御益筋之儀、程能勘弁有度候事」という文言があった。社会全体の「国益」と、幕府の収益となる「御益」の、両者を程よくバランスを取ろうという考えで、先任奉行の戸田氏孟が厳格な政策を推進したのとは反対に、現地の人たちのさまざまな立場を考慮した方針だった。ここに言う現地の人は、長崎町人だけでなく、唐人やオランダ人、長崎に蔵屋敷を設置していた西国諸藩の武士たちも含まれていた。歴史学者の木村直樹によれば、長崎の都市と幕府の政策とのバランスを考えて、長崎の町によりそった考えをしているうちに、奉行の裁量を超えた判断を下してしまったがゆえの閉門、そして翌年の奉行職更迭であったとしている。
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