へい‐じょう〔‐ヂヤウ〕【閉場】
閉場
閉場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 21:27 UTC 版)
しかし共同競馬会社は馬券を売ることはできず収入は会費、入場料、天皇からの下賜金、宮内省、農商務省、陸軍省からの支援に頼っていたが赤字であり1886年(明治19年)からは一場所二日の開催になり賞金額も減っていった。経営難のため1892年(明治25年)の秋場所を最後に共同競馬会社による上野不忍池競馬開催は終了する。 なお、上野不忍池競馬が終了したのは直接的には経営の赤字によるものだが、いくら上流階級が大勢参加しているとはいえ民間の1クラブであり馬券を発売できない共同競馬会社が不忍池の埋め立て工事までして馬場を整備し大規模な競馬を開催できたのは、鹿鳴館に象徴される欧風化政策を進める外務省・宮内省、馬匹改良を求める陸軍・農商務省などの官の支援があったからである。しかし鹿鳴館に象徴される欧風化政策は明治20年ごろから衰退し、また、共同競馬会社自身は馬券を発売しなかったとはいえどうしても賭けが発生する競馬では日本馬のレースに偽って雑種馬を出場させるなど血統の正当性も不明瞭化し陸軍の馬匹改良の目的に対しても疑問がわきだしていた。このため共同競馬会社への官の支援は脆弱になり、共同競馬会社の赤字は表面化したのである。社交場にして紳士・淑女のスポーツと位置付ける英仏の競馬を真似た上野不忍池競馬は鹿鳴館時代の一つの象徴であり、鹿鳴館時代の終わりは上野不忍池競馬の終わりを告げるものでもあった。
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閉場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:31 UTC 版)
時代の変遷と共に映画・ラジオ・テレビ等の新しい娯楽が出現する度に寄席という興行形態そのものが客を奪われ、1924年(大正13年)には東京市内に117軒を数えた寄席(落語定席以外も含む)は激減し1965年(昭和40年)には5軒のみとなった。 昭和期からの人形町周辺では多数の商店が徐々に会社組織になり、寄席の常客であった経営者や従業員が転居した郊外から通勤して来る様になった結果夜間人口が激減して、仕事が終わった夜に寄席に来るという生活の形態そのものが失われてしまった。 人形町末廣は昔ながらの夜席のみの興行で、現存する東京都内の寄席が外来の客を誘致するべく昼席興行も実施しているのに比べ経営戦略上も出遅れた感がある。入場者数の減少で経営を圧迫され、1962年(昭和37年)5月に営団地下鉄日比谷線、同年9月に都営地下鉄1号線が開通するが集客に結びつかず、1969年(昭和44年)10月に前を走る都電が廃止され、さらなる客離れを招いた。 開業以来借地に立地していた。土地の買い取りを打診されるが、経営不振と高度経済成長で高騰した土地価格の前に果たせず、元々の地主から土地を買収した不動産会社に立ち退きを迫られ、開業103年目の1970年(昭和45年)に存続を断念して閉場した。江戸時代以来の客席がすべて畳敷きの落語定席としては最後の存在だった。 オフィス街になった人形町界隈が、昔の東京の痕跡が残る観光地として人気を集め始めたのは、人形町末廣閉場から10数年を経た1980年代半ば頃からである。
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